ブーム、という言葉はなんだか軽薄な響きがするけれど、現代はなんだか「強い女」がブームとなっているように見える。ここでいう「強い女」とは、自分の意見を物怖じせず発言できたり、行動力を持っていたり、働いてお金を稼いでいたり、要は自立した女性のことを指す言葉。でも、そういう女性を形容するための「強い」という表現に出会うたびに、わたしはなんだか疑問を抱いてしまう。どうして自立しているだけで「強い」と言われるのだろう。強さにだって様々なものがあるし、そもそも人間は、誰もが強さと弱さを兼ね備えている存在であるんじゃないだろうか、と。そしてその感覚は、『ノルウェイの森』を読むたびに掘り下げられていくような気がするのだ。

『ノルウェイの森』は、言わずと知れた村上春樹の大ヒット小説である。そして、何を隠そうわたしのバイブルとも呼べる小説だ。なんだか心がすり減って、生きるのがちょっぴり苦しくなったりしたときは、いつも付箋の貼ってあるページを開いてそっとその言葉に触れる。機知に富んで時にちょっぴり残酷な言葉たちが、わたしの心をきゅっと掴んで、湿った胸の中をぽかぽかと照らす。物語中に漂う哀しみが、わたしの哀しみと溶け合っていく。寂しいときに抱きしめたくなる大切なぬいぐるみみたいな物語だ。

一見「強く」見えるミドリちゃんと、一見「弱く」見えるハツミさん

主人公は、ワタナベという大学生の男の子。物語を彩るのは、魅力的な四人の女性たち。心に傷を追う直子、天真爛漫なミドリ、人生の先輩のレイコ、芯の強いハツミ。今回は、わたしのお気に入りの登場人物のミドリちゃんとハツミさんについて話したい。

ミドリちゃんとハツミさんは、一見正反対の女の子に見える。説明すると、ミドリちゃんはベリーショートで、性にも奔放で、ミニスカートとかよく履くし、思ったことはなんでも言葉にして主人公のワタナベくんを振り回す、とにかく自由な女の子。どちらかというと現代の新しい女の子のイメージに当てはまる、一見「強く」見える感じの女の子だ。愛なんて単なるわがままだ、という論を華麗に喩えた、こちらの苺のショート・ケーキの比喩はあまりにも有名だ。

「私が求めているのは単なるわがままなの。完璧なわがまま。たとえば今私があなたに向って苺のショート・ケーキが食べたいって言うわね、するとあなたは何もかも放りだして走ってそれを買いに行くのよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて「はいミドリ、苺のショート・ケーキだよ」ってさしだすでしょ、すると私は「ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃったわよ」って言ってそれを窓からぽいと放り投げるの。私が求めているのはそういうものなの」

『ノルウェイの森 上』( 村上春樹/講談社)

それに対してハツミさんは、言葉遣いや仕草が丁寧で、永沢さんという男性を一途に想い、彼の女遊びにも目を瞑る、古典的な理想の女性像に近い人。付き合いながらも他の女性と遊び続ける永沢さんに何も言わず、ただ彼の変化を待っている。その様子は本当に痛々しく可哀想だし、一見「弱く」見えるだろう。けれど、わたしはそんなハツミさんも、異なる角度から見れば「強い」女性なのではないかと思うのだ。

ハツミさんの想いの水は、永沢さんという男が生きている限り決して濁らない

ここで、わたしが大好きな場面を一つ紹介しよう。ずっと女遊びを繰り返し、誰とも結婚する気はないと宣言する永沢さんについて、別れたほうがいいのではとワタナベくんがハツミさんに提言した後の場面である。

「でもね、ワタナベ君。今の私には待つしかないのよ」とハツミさんはテーブルに頬杖をついて言った。 「そんなに永沢さんのこと好きなんですか?」 「好きよ」と彼女は即座に答えた。

『ノルウェイの森 下』( 村上春樹/講談社)

この場面を読んだとき、わたしはハツミさんのことを素直に「強い」と思った。だってあなたは、付き合っている相手を好きかと尋ねられ、即座に好きだと断言することができるだろうか?どんなに純粋な「好き」で始まった恋だって、付き合っているうちに「好き」は純度を落としてゆき、その想いの水が濁りきった頃、多くのカップルはお別れをする。それでもハツミさんの想いの水は、永沢さんという男が生きている限り決して濁らない。これを強さと呼ばずして、一体なんと呼べばいいのだろう?

「強い女性」なんてものは決して存在しない

ミドリちゃんだって、四六時中いつでもエネルギッシュで「強い」わけではない。彼女にもやはり脆い一面は確かにあって、例えば身近な人物の死のあと、彼女はワタナベ君に自分が眠るまで抱きしめていてほしいと懇願する。そして以下の会話を交わす。

「それで、私のことずっと大事にしてくれるわよね」 「もちろん」と僕は言った。そして彼女の短くてやわらかい小さな男の子のような髪を撫でた。 「大丈夫、心配ないよ。何もかもうまくいくさ」 「でも怖いのよ、私」と緑は言った。

『ノルウェイの森 下』( 村上春樹/講談社)

この二人から思うのは、誰もが強さと弱さの両方を併せ持った存在で、むしろそれらはほぼ紙一重で、「強い女性」なんてものは決して存在しないということだ。とりわけ、肩書きや表面的な行動によって判断される「強い」女性なんてものは。だって実際わたしの中には、ミドリちゃんの面とハツミさんの面、どちらも潜んでいるのだから。だからわたしは、「強い女」といった言葉のような、人のある一部の要素だけを抽出して「強い」と形容するような表現は、あまり意味のない表現だと思うし、次第に使われなくなっていってほしいと思う。少なくともわたしは絶対に使わないでいたい。

人は、それぞれが持つ強さと弱さの隙間から魅力が溢れ、その人らしい美しさとなっていくのではないだろうか。だからわたし自身も、自分らしい強さと弱さを核に、まっすぐに生きていきたい。ハツミさんとミドリちゃんは、きっといつまでもわたしの憧れの存在だ。