子供の頃から、兄弟姉妹がいない私にとってパソコンは遊び道具で、インターネットがとても身近なものだった。
お絵かき掲示板やソーシャルゲームでネット上の交流に慣れていたおかげで、SNSデビューするのも早かった方だと思う。
昔から趣味の合う友達がいなかった私。SNSが願いを叶えてくれた
私には、昔から趣味の合う友達がいなかった。
普段あまりテレビに出ていないアーティストや深夜のお笑い番組について話ができたことなんて一度もなくて、学校の休み時間にみんながアイドルの新曲や昨晩のドラマの感想で盛り上がっているのを見て、私もあんなふうに話せたら、っていつも思っていた。
SNSを始めると、その願いはすぐに叶った。
ひとたび検索すれば好きなモノの話題が溢れかえっていて、同じように、誰かと話したくて悶々としている人たちがたくさんいた。
ふだん好きなグッズを身につけて歩いていたって声なんて掛けてもらえやしなかったけど、SNSではプロフィールに書いておくだけで、みるみるうちに輪が広がっていった。
好きなことを好きなだけ心おきなく話せるSNSは、楽園だった。
息苦しさを感じていた私に、居場所と一筋の希望を与えてくれた
ほどなくして、同じ夢を持った人たちとも出会った。
同年代の10人ほどで、毎日努力の成果を見せ合った。
将来の計画を立てて、「いつか一緒に叶えようね」なんて話したりして。
結局、私も当時の仲間たちもそれぞれの道を進んで、会うこともないままに終わってしまったけど、私にとってはかけがえのない時間で、今もいい思い出だ。
SNSは、本来は交わることがなかったはずの人たちとの縁を繋ぎ、新しい価値観をもたらしてくれる。
友達や家族に言えないような悩みも、時とともに流れてしまう"独り言"でなら、自然と話すことができた。
今いる"ここ"が全てじゃない。
世界のどこかには、私を分かってくれる人がいる。
田舎の小さくまとまったコミュニティの中で息苦しさを感じていた私に、居場所と一筋の希望を与えてくれた。
リアルの人たちと繋がって、ネットの心地よさからかけ離れていった
ガラケーからスマホに変える頃には、テレビや街中、生活のあらゆる所でSNSという言葉を聞くようになった。
周りでも利用する人が急激に増えて、学校ではクラスみんなが互いにフォローし合っていた。
私はネットにリアルの繋がりを持ち込みたくなくて、しばらくは「やってないんだよねー」と言ってごまかしていた。
だけど、そんなウソにも日に日に限界を感じ、「誰々がリツイートしていた動画が~」なんていう話題が出るたびになんだか取り残されているような気もして、渋々新しいアカウントを作ることにした。
リアルの人たちと繋がってからは、"非リア充"だと思われたくなくて、誰かと遊んだことをいちいち報告したり、慣れない自撮りを慣れないアプリで盛ってみたりした。
「撮りたい時に撮る」写真は、いつのまにか「載せるために撮る」に変わってしまった。
それは私がネットに感じていた心地よさとはかけ離れていて、なんだかとても空しかった。スマホを見るのがどんどん楽しくなくなっていった。
薬にも、毒にもなる。救いになる時もあれば、心に傷がつくことも
「向いてないからやめるね」と言ってアカウントを消してから、もう8年くらいになるだろうか。
あれから周りの環境や関係性は大きく変わって、スマホの中の連絡先もぐっと減った。
当時SNSで繋がっていた同級生のほとんどが、もう二度と会うこともない人たちだ。
だけど、ときどきふと思い立って、彼女たちのことを探してしまう。
幸せを掴んだり成功したりしている今の姿を見て、ただひたすらに落ち込むのだ。
そんなことしたってなんの意味もないのに。
SNSはときに薬となり、ときに毒となる。
誰かの日常や本音が救いになる時もあれば、思いがけない形で心の繊細な部分に傷がついてしまうこともある。
それでも切り離すことができないのは、もはや生活の一部であり、私自身の一部にもなっているから。
そこに残す言葉の一つ一つが――たとえ「おはよう」や「おやすみ」の一言でも、誰かに共感したリツイートやいいねも――私が今、この世界に生きているという足跡なのだ。