29歳間近。わたしの月収は10万になった。
学生時代のアルバイト代と比べても少ない。人生最大の貧乏である。

いまは、アルバイトを3つ掛け持ちしている。
本職の清掃業で月6万円、副業のサウナの受付で月4万円、もう一つは映画館で働いているが人員不足の時だけしか出勤しない。お小遣い程度の金額なので月収にはカウントしないことにしている。

寮に住み込みなので家賃と光熱費はかからない。本職の収入を生活費にし、食費や携帯の通信費やその他雑費もすべてこの6万円に収め、掛け持ちの収入は全て貯金に回している。
はじめはお金の計算がうまくできず、貯金に回すお金も使ってしまっていた。

本職も副業も一人でやる仕事なので、仕事の量もペース配分も自分で決めながら行うことができる。極限のマイペースかつその日によって気分が変わるわたしには性に合う仕事ではあるが、単純作業なので特にやりがいもないし、やはり通勤は面倒くさい。

けれど、仕事に対するストレスはほとんどない。
仕事も給料もいまはこれで満足している。

仕事のやりがいやお金よりも、わたしはとにかく時間が欲しかった。
いまの仕事で週末と、平日午後からの休みの2日間を手に入れることができた。

ストレスのない、セルフコントロール出来る生活

大好きな映画は、映画館の入社特典みたいなので無料で見放題だし、サウナに併設しているジムも同様に無料で通える。
節約のためにはじめた自炊の成果もあいまって、体は引き締まった。
そんな料理もほんの少しの塩加減で美味しくなるとわかると興味がどんどん湧き、いままで本なんて両手で数えるほどしか読んでこなかったが、図書館で料理本を借りてきて凝ったものにも挑戦しだした。
そうして図書館に通う頻度が多くなると、ほかの本にも自然と目が行き、感動して同じ作家さんの小説を読み漁うこともあれば、たまにビジネス書や実用書で社会のしくみとか勉強しちゃっている。
美大を卒業してからなんとなく気が乗らず、距離を置いていた絵も描くようになった。

そうやって、ストレスのない仕事と同時に自由な時間を得ることができてから、わたしは自分の感情に正直になった。

「できる大人」を求められてため込んだムダなもの達

かつては都内でたいしてやりがいも見出せない会社で仕事量に対して求められるスピードや正確性だとかの社会が作り上げた「できる大人」を押し付けられ、少しずつ順応するようになっても先輩からは妬みを含んだ嫌味を言われるようになり、ストレスだらけの日々だった。
会社の愚痴を吐くための外食も多かったし、自分探しだとかなんとかで一人旅もよくしていた。
恋人が無性にほしくてたまらない時期でもあったので、都内近郊の恋愛成就と謳われる神社を片っ端から巡り、友人たちからおすすめされた占いにはすべて足を運んだ。たまに誘われた合コンのためにブランド物の服を全身揃えたりもしていた。
貯金なんてしようとも思っていなかった。

結局、当時買った服なんて、趣味で買った登山用の機能性のある実用的な服以外すべて売った。
物なんて、ほぼ残っていない。

本当に欲しいものは、突き詰めるとさほどない

いまは、古着でわたしのおしゃれ欲求は十分満たしているし、どうしても欲しいものは「本当に欲しいか?」を突き詰めていくとさほどない。

あの頃のわたしはなんだか色々と欲求不満だったし、おそらくそれは都会に住んでいるとなんとなく体に染みついてくる、「最低限の都会の生活スタイル」みたいなもので、わたしの体は自然とその感覚に沿って生きていたんだと思う。

いまは都会から遠く離れた地で、どんな仕事がしたいか、どんな生活を送りたいか、どんなときにお金を使いたいかを考えては、紙に書き出すようにしている。

例えば、どこでも働ける仕事について数カ月置きに拠点を変えていきたいとか、貯金が溜まったら中型バイクの免許をとって、その町で評判の食堂とか喫茶店のプリンを食べに行くとか、ゲーム実況を観てやりたいと思っていたゲームを一日中するとか。

お金と引き換えに手に入れた時間を使って、自分らしく生きていく

都会での生活で必要だと思っていたものはわたしには何一つ欲しいものではなかったんだと気づかされる。

貧乏と引き換えに時間を手に入れ、わたしはやっと自分らしく生きていくためのスタート地点に立つことができた。

こうやっていま、週末まるまる使ってこの文章を書いているのはわたしがしたいと思ってしていることだ。

今度、ペットボトルの鉢で豆苗を育てるのがわたしの一番の楽しみである。