「将来、あんたの作品のファンになった人が、あんたの外見見たらがっかりするよ〜(笑)」
中学生のころ漫画家を目指していたわたしが、同級生にかけられた言葉。
自分の心境、そして返した言葉は今でも覚えている。
「いや、わかるわ〜!(笑)」
やっぱダイエットしなきゃだよねえ〜!なんてキャッキャと笑いながら、何でもない会話に戻った。
周りより太っていた、いじられキャラなので言われ慣れていた、だからなんとも思わなかったわたし。しかしその言葉は、ゆっくりと長い時間をかけて、わたしの心や身体にずぶずぶと染み込んでいった。
体験した記憶のように刻まれた「会ったらがっかりされる」イメージ
SNSで仲良くなった人と、実際に会ってみたいと思うとき。
履歴書に写真を貼って送るとき。
友人の友人にはじめて会うとき。
ああ、思えばあの時もこの時も、「がっかりされる」イメージが頭から離れなかった。
高校生の頃は自分の心を守るため、「いや〜私、デブなんで!まじブスなんで!」と自虐に走り、予防線を貼るのに精一杯だった。そのうち相手も困らせてるなと気づき、大学進学と同時にぱったりとやめたのだけど。
自虐はやめたが、なす術がなくなった私は、その後も自分の顔を知らない人との交流は極力避けてきた。
SNSには同じ考えや趣味・価値観の人が山ほどいて、運よく仲良くなったこともあったけれど、一度お会いしたい!という流れになると、ひたすらに避けて逃げた。
もう「がっかりされるイメージ」は、まるで体験したことのように脳にこびりついていた。
やがてわたしは「プラスサイズ」「ボディポジティブ」という考えに出会い、感銘をうけ、発信する側になりたい!と絵を描きはじめる。そんな中、オンライン通話で話をさせていただく機会があったときのこと。
通話アプリのカメラ画面をONにする。
コロナ騒動で珍しいことでもなくなったこのアクション、本当に本当に緊張した。
しかし今のわたしは、ボディポジティブの勉強をしたし、向こうもそれを知って声をかけてくださっている。大丈夫、大丈夫だ。
そう言い聞かせる。
思い出は「呪い」だったと気付いた日、涙が出た
緊張しながらの取材の中で、わたしは冒頭のエピソードをお話しした。「…なんて言われたことがあったんですよ〜」と、あくまで思い出話のひとつとして。
話を聞いたその方は、眉をひそめ、本当に悲しそうな顔になった。そして、
「それは、ひどいですね…」
とやさしく私に声をかけてくれた。
リアクションがあっても「うわあ!嫌ですねえ〜!」という感じだと思っていたわたしは、想像していなかった展開に焦って、「で、ですよね…?!」と相手に合わせるように返した。
焦りの正体は、「ああ、あの言葉って、そんなにも傷ついていいものだったんだ!」と気づいたことだった。
嫌なことを言われたと思い続けていたけれど、それでも私は心のどこかで、「でも言うとおりだなあ…」と思っていたのだ。
「傷ついた!」なんて一度も、ましてや「ひどいね」なんて、あんな優しい声で、昔のわたしに言ってあげたこと。一度もなかった。
思い出のひとつが、実は大きな呪いだったと発覚した瞬間。もう10年以上経っているのに。
取材のあと、家事をしてお風呂からあがったわたしは、気がつくとほろほろと泣いていた。
「呪い」に気付いたら、過去の自分にやさしい言葉をかけてほしい
ボディポジティブという言葉が大好きだ。いろんな人にこの考えが伝わったら嬉しいし、そのために描く絵は、いちばん作りがいがある。どうか外見に悩むぽっちゃりした子がすこしでも元気になりますようにと、毎日そう願わずにはいられない。
そうして3年ほど活動してきたけれど、わたし自身がこうしてようやく、自分にかけられた呪いの存在に気づくぐらい。
むずかしい!ボディポジティブ、ルッキズム。自分を好きになること。
この文章は、呪いを解くでも癒すでも軽くするでもなく、ただ「存在に気づいた」という体験の話。
でも、「気づくこと」って大事じゃない?すごいことじゃない?そして意外と難しくない?
そう思って、不慣れながらぽちぽちと文章を書いてみている。
小さな体験談でしかないけども、これを読んで「もしかしたら…」と思ってくれたらうれしい。あのときの言葉が、体験が、自覚のない傷が、いまの自分を縛りつけ、苦しめてはいないか。
もし気づいたら、傷ついたね、痛かったね、ひどかったねと、過去のあなたにやさしく声をかけてあげてほしい。
私もまだまだ実践しはじめたばかりですが、よかったら。