困難な境遇に耐え抜いてきた「隠れ美人」が、魔法によって王子様に発見してもらい、切望されいわば下克上を果たすシンデレラ的ファンタジーは、一生懸命に生きる全ての人に勇気を与える。と思っていた。

でもシンデレラの結婚生活におけるその後は、本当に「ハッピーエバーアフター」だったのか。

よくよく考えてみると、舞踏会で一目惚れした相手を探すためだけに国をあげて捜索活動をさせてしまうような王子様である。

他にとびきりの美人が現れたら?シンデレラが歳をとって容姿が変わったら?英才教育を受けて育ったであろう王子様が教養の無い彼女への優越感に浸ることに飽きたら?

想像するだけで悲惨。シンデレラR.I.Pである。

本物は、シンデレラかベルか

目を覚まそう。

どんな容姿だとしても、自分の主体性が無ければたまたま選ばれた王子様の倫理観に自分の幸せの行方を委ねるしかなくなるのだ。

それに比べて、同じ庶民からロイヤルファミリーへの下克上を果たしたプリンセス「美女と野獣」のベルの成功は、圧倒的に本物だ、と感じる。

ベルは、絶世の美人だったから王子様に選ばれたのでは無く、読書を通じた知的なコミュニケーションによって心を通わせ、惹かれ合った。彼女に内在する美しさは、例え年月を重ね容姿が変化したとしても、王子様は飽きることは無いだろう。

でも、私もそう偉そうなことは言えない。かつては私も「にわかシンデレラ信者」だったから。

大学1年生の時、ひょんなことからアメリカに本部を置くミスコンテストの会社に所属することになり、被写体としてお金を稼ぎ始めた。

仕事は博打のようなもので、選んでさえもらえば3日で大学一学期分の学費が稼げる時もあってバイトより効率が良かったし、普段の大学生活とは180度違う世界に足を突っ込み色々な人に会うのが、新鮮で楽しかった。選民感と全能感もりもりの日々。

この頃同級生たちには「自己顕示欲に支配された変な人」と思われるのも嫌だから授業には常に集中し「パリピなガリ勉」を公言しながら浮かないように武装していた。かといってモデル仲間には異端視扱いされるのが怖いから、現場では勉強道具を見られないようにビクビクしていた。

この「自己防衛」は、何を守ろうとしていたのかわからない。今考えれば、もしかしたら自分の中のアイデンティティの揺れの反射だったのかもしれないな、と思う。

だから、忙しくなっても課題はきちんとやりたかったし、授業についていけなくなるのも嫌で、深夜に帰宅してから朝まで勉強して、日が昇るタイミングで走りに行き、そのまま授業へ、なんて日も。

一年半ほど続けた頃、次第に肉体的にも精神的にも、疲弊が隠せなくなってきた。

撮影の待ち時間に一人で授業の本を読んでいた時だ。

ある男性モデルが、「若い時間を無駄にしている」とからかってきた。価値観の違いだと笑ってやり過ごせば良かったものの、当時の私は笑えなかった。完全ノックアウト。

睡魔と戦いながら眉間にしわを寄せて勉強する時間が、コーヒーを何杯も飲んで教室に向かう朝が、ジムに行かず授業に出ていることが、全部無意味なのかもしれない。

他の女の子たちのように、ご飯はどこかの「偉いおじさん」に払わせて、体重管理してオーディションで選ばれ続ければ、ちまちまお給料のために働く必要も睡眠時間まで削って勉強する必要もないし、そもそも高い学費を払って大学を卒業する意味ってなんだっけ...?

それからの授業は全く内容が頭に入らなくて、成績も急低下。

大学を辞めようと思った。

でも、全ての契約が切れたタイミングで表に出ることを一切やめ、大学の勉強に専念した。留学もしたし、そこでは一生モノの友達がたくさんできた。

自分のアイデアや研究の成果そのものが評価される快感にようやく、少し体重が増えると人格否定をされる日々には分からなかった、自分の存在意義を見出せるようになった気がする。

あの時の問い「なぜ勉強するのか」への答えは、今なら分かる。

男女平等や差別撤廃を主張するポリコレ女子への反論意見として、女子の享受している既得権益が度々指摘される。

確かに、女子の「若いうちはハッタリが効く」という事実は存在する。ミスコン時代は少し興味を示せばどんどん人脈を繋いでくれる弁護士や社長などの協力的な姿勢に、「なんだ、世の中ってちょろいじゃん」と思ったこともある。

甘えず「本物」になるしかない

そのチャンスを踏み台にすること自体は別に否定しない。

おじさんたちがラスボスのように立ちはだかる世界の限られた可能性の中で、鼻の下を伸ばして寄ってくる金と地位を備えたおじさんを利用してさらなるステージまで登って行けるなら、それはそれで勇敢で賢明だとも思う。自分の地位を築いた後で、自分の下の世代から変えて行けばいい。

問題は、それに甘えて「本物」になる努力を止めることだ。

魔法で変身して王子様を待つという他力本願で頼りない生き方は、最終的に自分を苦しめることになる。自分の知的好奇心に正直になって自らを教育し、自分の判断軸や意志にしたがって丁寧に日々生活していくこと、これは自己防衛である。

わたしはもう、かぼちゃの馬車も、高価なドレスも、ガラスの靴もいらない。
少しの勇気と、自分への信頼、そして他力に甘えない努力。それだけだ。