ナンパの「その先」のセックス。私はあの時怒るべきだった。

タバコをやめた。
その道を夜に通るのをやめた。
人を安易に信じることをやめた。
自分の“大丈夫”を信じるのをやめた。
自分の怒りに目を背けるのをやめた。
数年前の経験がきっかけで。
その日、タバコを握りしめて喫煙所に向かいながら、コンビニで酒を買って帰ろうと考えていた。「一緒に飲まない?」と声をかけられたのはその時だった。
当初は嫌悪しながらも結局ついていってしまったのは、酒が飲みたかったからか、あまりにしつこかったからか、断るのが面倒だったからか。今なら絶対にしないことだが、その当時の私はあまりに軽率だった。「ちょっと話してお酒を飲むだけなら“大丈夫”」だと思い込んでいた。
声をかけてきたその人が、本当に私に求めていたのは酒を一緒に飲むことではない。2軒目だと称して半ば強引に引っ張っていかれたのはホテルだった。心底ゾッとしながらも抵抗できなかったし、この足でついていってしまった。自分が我慢すれば終わる、抵抗するよりリスクが低いと思ってしまった。こんなことはよくあることかもしれない、と自分に言い聞かせてもいた。私は間違っていた。
今振り返ってみても、自分がなぜあのような判断をしたのか、ものすごく後悔している。自分にまとわりついていたタバコの匂いが気持ち悪く、嫌悪感と虚無感でいっぱいになった。
危機管理能力が低すぎる、とか、世間知らず、とか言われるのを承知で書くが、ナンパの目的は「セックス」だとはっきり誰かに教わっていたかった。自身でナンパの「その先」を経験するまでは、表立って出てくるナンパの「その先」のイメージは、ナンパきっかけで知らない人と友達になったり、恋人同士になったり……といったふわっとしたお花畑のようなもので、周りの友人も知らない人との突発的な出会いを単純に楽しんでいるように当時の私には見えていた。
当時の私が無知だったことは認める。それでも、実際に経験せずに事前に理解していたら、嫌な経験を回避できたはずだったと思う。
「NO」と言わなかった、言えなかった私は、どこかで笑い話にすれば嫌な思い出から解放されると思っていた。だから、周りの友人や久々に会った知人には、笑いながらナンパにあったときの経緯、「その先」の話をした。
親友は、「ウケるんだけど」「まあ、同じような経験する人は結構いると思うよ」と言った。
学生時代の友人は、「でも、自分の足でホテルに行っているからレイプではないもんね……」と言った。
仲の良い会社の先輩は、新たな恋愛が始まったと勘違いしたのか話の途中で「良かったね!」と言った。
私は笑っていた。そういった、ごく普通のこととして受け止める周囲の反応に安心しようとすらしていた。でも、忘れることも癒されることも決してなかったし、“大丈夫”ではなかった。
ナンパの「その先」は、嫌な思い出として私の中にずっとドロドロした状態で留まっていて、ちょっとしたことで鮮明に引き出される。映画の中で暴力的な場面が出てきた時、男性と夜に食事をしていて「もう1軒」を不意に切り出された時、街で絡まれている女性を見た時。これがフラッシュバックなんだな、と思った。
ぼんやりとしたしんどさを自分の中に抱えながら、しばらくずるずると暮らしていたが、ある日、小川たまかさんの『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』という本に出会った。この本は、世間からは「ほとんどない」と捨象されてしまう、でも、確実に存在している「生きづらさ」や、“悪”かどうかジャッジするにはグレーだと言われてしまう事例が描かれている。
性暴力やジェンダー格差、社会に存在する蔑視のまなざし。この本を読んで、私はあの時怒るべきだったと思った。ナンパされた時、ホテルに連れて行かれた時、周囲の発言に実は傷ついていた時、自分の本心に従って、怒るべきだった。
しんどさは変わらず自分の中に留まったが、出来事を前向きに捉えられるようになった。そして、この本がきっかけでジェンダーやフェミニズムにも興味を持った。
私が経験したしんどさや辛さは、私の人生に本来不要なものであったと思う。こんな思いを誰もしないで済む日が来てほしい。そして、もし辛い経験をした時は、誰もが遠慮なく怒れるような世の中になってほしい。
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