「恋愛経験のない君には分からないよ」
そう言われた時、言葉を失った。頭が真っ白になって、ここで泣き出せたらと願う。なのに、少しも涙は出なかった。
 ああ、この人、こんなにも酷いことが言える人だったのだ。優しくて穏やかな人。周りの人は彼をそう表現していた。

 彼は、私が一年間片思いしてきた人だった。就職後、初めて社内で見た年の近い男性。黒いスーツが似合う、色白で細身の彼は、あまりにも私好みの姿をしているから、「就職に絶望する私の為に神が拵えてくれたのかもしれない」と運命を感じてしまった。呆れるほど勝手なことだ。

 一目惚れから始まったそれは、なかなか決定的な瞬間を待たず、ついに自分から彼に連絡先を渡した。産まれて初めて、惚れた人に「私を視界に入れて」とぶつかっていった。自分がこんなにも勇気ある人間だったとは知らなかった。

元カノから彼を庇った。馬鹿らしくなる程、彼の味方でいた。

 何度かの食事の果て、しびれを切らした私は「私と付き合う気はないんだよね」とついにもらした。彼は、「もっと早くその話をしだしてくれれば良かったのに」と言った。お互い居心地悪く、スマホで終電を検索して、駅のホームの冷たいベンチに座り込んでいた。

 そもそも。その日のデートは、笑い話になるくらい酷いものだった。何時間も歩きながら、私はずっと彼の元カノの悪口を聞き続けた。後から確認すると、10キロは歩いていた。笑える。
数年前その人と同棲していたと聞いた時、ぎゅっと心臓が締まって、音が遠くなるのを感じていた。どうしてそんな話聞かなきゃいけないの。サイテー、もう帰るから。これが本心だったのに、悪口の羅列の隙間、「それ、あなたは悪くないよね」と元カノから彼を庇った。馬鹿らしくなる程、彼の味方でいた。

 最後のデートの前日。「来週のご飯、ちょっと厳しいから、明日に変えられない?」と連絡が来た。いいよ。自分を押し殺して、明るく彼の言い分を受け入れた。
何時間経っても、待ち合わせの時間も場所も連絡が来なかった。友達と一日遊んで、ようやくスマホを確認した瞬間、悲しくて仕方がなかった。彼から明日にしたいと言ったのに。私が折れて「ここでいい?この時間に集合ね」と言い出すまで、彼は沈黙を貫き通した。翌日、伝えた場所に居なかった彼をようやく見つけた時、「どこにする?どこでもいいけど」と彼は素知らぬふりで言った。

 「古い建物が好きなんだ、ここもいいね」と彼が笑う。心がざわついて、頭の中氷が割れるみたいに緊張感が走った。嫌いになりたくないから、黙った。
「俺、お店知らないんだけど」と言われる度に、「私もだよ」と言いたくて仕方がなかった。「俺は男だけど、リードとか出来ないよ」と言われた時、「私もあなたといるといつも、どうすればいいか分からなくなるの」と泣きだしたかった。好きなのにどうしてだろう。楽しくない。それよりも苦しい。
 彼が好きな珈琲が飲めるお店、待つ店は彼の機嫌が悪くなるから席の数もチェックすること、煩いところは嫌いそうだから、静かなカフェ。どこにあるんだろう。私も、全然、素敵なお店は知らないの。でも、彼に会えるのなら、少しぐらい我慢しなきゃ。いいじゃん、それくらい。けれど、本当は「こことかどう?」と一緒に決めたくて仕方がなかった。私、あなたともっと話し合いたかった。そういうものが恋だと思っていたから。でも、恋なんてちっとも分からなかった。経験したことないから。

まともな異性経験がないことが、コンプレックスになっていた

 誰にも言ったことはなかったけれど、男性と付き合った経験がなかった。何度かその一歩手前まで行くけれど、「君が好き」と向けられるほど、「あんたが見ているのは私じゃない、私のこと何も知らないくせに」と怒った。私だって、私を好きになりたくて仕方がなかったけど、上手く自分のことを愛してやれなくて、知らないぽっと出の男が私を愛してしまうことが苦痛だった。私には出来ないのに。
だから、この年まで、まともな異性経験がないことが、コンプレックスになっていた。
元カノの悪口も、同棲していた過去も、聞けば聞く程、自分の人生が周回遅れのように感じられて苦しくなった。最後の一撃が、「恋愛経験のない君には分からない」という件の台詞だったわけだ。

 私の人生、全て無駄だったみたい。恋をしてこなかっただけでこんなにも惨めなんだ。彼との最後のデートから暫く経っても、この想いが頭の中を占めていた。
 そんなの嘘だって分かっている。無駄なわけない。沢山努力して、どうにか満足したくて、可愛くなりたくて、頭もよくなりたくて。ここまで頑張ってきた。ただ、私が私を愛せるまでのこの過程、異性にまで気は回らなかった。私は誰よりも真っ先に自分をどうにか愛してやりたかった。少し自信が湧いて、満足した矢先。この出会いがあり、砕かれて、今は随分疲弊している。

私が好きな自分で、誰かを愛したい。早く、次の人に会いたい。

 でも、不思議と「もう誰も好きになりたくない」なんて思わない。私、誰かを好きになったりできるんだ、と自分を抱きしめたくなった。頑張ったじゃん。でも、好かれたくて、言いたいことも言えないで、馬鹿だね。そんな子じゃないでしょ。そう言ってやる。
素直で、はっきり言えるところ。みんなが言う私の長所だった。彼といる私は真反対。良いところ、全部死んでいた。
 弱った自分に、美味しいケーキといい香りの紅茶を出してあげながら、「今度出かける為の洋服、買いに行かない?」と誘ってあげたい。望んだ結果は出なかったけれど、振り返れば、簡単に違和感を見つけられる。本心を隠して、彼の味方になって、馬鹿みたい。泣かせる人の為に可愛くあるの、馬鹿みたい。どうしてここまで作り上げてきた自分を殺してしまうの。好きになってほしいのは、その自分なの。そうやって、沢山の疑問が浮かんで消えて、気が付いた。私が好きな自分で、誰かを愛したい。恋愛事は、まだまだ初心者。だから、失敗も仕方ない。早く、次の人に会いたい。好きって言いたい。次は「一緒にお店決めようよ」と笑顔で言いたい。これから素敵な経験、作るからね。