「物分かりがよく」て、「愛想とノリが良く」、「そこそこ小綺麗」で「オトナ」な “カノジョ”。

“カレシ”がどんなに毎日飲み会で忙しくデートするお金や時間が無くても全力で理解を示すし、デート中に寝られても、連絡が丸一日無くても、内緒で異性とサシ飲みに行かれても、ダイエット中にデブだとからかわれても、夜中にふと開いたSNSで露出度の高い女子との青春の一枚(白目)を晒されているのを見かけても、微笑みは絶やしません。

だって、私は「一流カノジョ」なんだもん。

文句を言うのは、二流、三流。ヒステリックに感情をぶつけたり、束縛をしすぎて「重く」なりフラれたとしたら、それはもうあなたのせい。カノジョの役を全う出来なかった顛末です。

こんな“重い事”を考えるなんて「二流カノジョ」だなと落ち込んだ

勲章を胸に引っさげて、地位と栄誉に酩酊し威張り散らしながら闊歩する。
オーバーな男性性を揶揄する時に抱きがちなイメージ像である。

私はこの「一流カノジョ」を演じ切るのが自分の価値で、その勲章の一つになって “カレシ”の虚栄心を満たしてあげるのがカノジョとして最高の栄誉だし奉仕だと思っていた。

どんなにスケジュールが過密な時も、一目会いたい一心で他をキャンセルしたり徹夜をして無理やり予定を組み、おしゃれしてデートに向かい、お金が無いならと多く払い、喜んでくれそうなものをプレゼント。

でも、一日連絡のこないまま迎える深夜2時の静寂が、誕生日をスルーされて気づかないフリをする痛みが、想いを込めて書いても一向に読んでもらえない手紙が、どうしてきちんと”努力”が報われないのだろうと感じさせて、その度にこんな“重い事”を考えるなんてまだ「二流カノジョ」だなとさらに落ち込んだ。

負のスパイラル極まりない。

当時の“カレシ”を責める気など更々ない。意見を言わなかった私にも大きな非があるから。

が。今でもそれらの思い出は、絵を描いてオーブンで焼いて小さくするプラスチック片のように、きゅううう、と私の心を痛みで小さく縮ませる。

怒られて初めて、カノジョ像の呪縛から自由になれた

当時の私は、精神衛生に公共概念があるとすればWHOがパンデミック宣言するくらい危険だったと思う。でも、一人の人間の感情としてまともに喰らうダメージを、「一流カノジョ」の幻想はなかなか認めさせてくれなかった。

我慢に我慢を重ね、修復が不可能になって途切れてから久しい。

私は大切な人に怒られてようやく、このカノジョ像の呪縛から自由になれた。

「メンヘラ」概念の内面化

「私、付き合ったら絶対重くなるし、嫉妬するし、めんどくさいよ」

誰かと交際すること自体に辟易していた私は、好きな人に告白されるという映画のような瞬間に、それでもぜひ付き合いたいとは思えず、カノジョとしての自分のネガティブキャンペーンを敢行。(サラッとリスク犯すのやめてくれ)

「本当にその人のことを想ってする行動なら、それの何が悪いの?」
「重いとか面倒くさいとか、言ってる意味がよく理解できない」

こう真剣に怒ってくれたのが今のパートナーなわけだが、その時に初めて「メンヘラ」「重いカノジョ」「束縛」という概念が社会的な刷り込みであったことを知覚し、恥じた。

そんな風に思い込まされて生きて来た事が一番悲しい、と私の発言に落ち込むこの人は地上に舞い降りたリアル天使なのでは、と呆然と彼を眺めた。私がフラッシュバックで涙を流す度に一緒に泣いてくれるその人にセラピーのように傷を癒してもらう日々が始まった。

「カノジョ」を極めたところで「パートナー」にはなり得ない

人として尊重する誰かと暮らしを共有し、支え合うこと。そこには理想的な体型も、気取ったプレゼントも、やせ我慢も必要なかったはず。こんなシンプルな論理をどうして信じられなかったのか。

どうせそんなのフィクション、つまらない理想論ほざく暇あったらジム行ってダイエットせい、婚活婚活、えんやこら、と心の中で三年前の私が必死に反論する。

「“カレシ”とは本質的に身勝手で、自己中心的で、目離したら浮気するけど、束縛したら嫌われる生き物だから都合のいい女に徹するのが賢明である」という歪曲した男性像もまた社会的な刷り込みで、そんな頭からのステレオタイプを勝手に内面化し幻想の障害物レースを見た負けず嫌いの私は、その中で必死に勝ち抜いて一流になろうとしていた。苦しいのは当たり前である。

こんな関係の中で私たちはどちらも、「カレシ」「カノジョ」の枠に囚われてお互いを尊重しようと出来ていなかった。「カノジョ」を極めても「パートナー」にはなり得ないし、反対に延長線上にはいない「パートナー」を、「カレシ」に求めても時間と感情とお金と労力の無駄なんじゃないかと思うのである。

どうか、これ以上自分をすり減らすような生き方はしないで

もちろん人間関係の築き方およびライフスタイルは多様であるべきで、その人たちがお互いに幸せならば、うるさくしてごめんね、聞き流してね、とウインクしたい所存である。

でも、一つだけ。

友達のカレシの浮気の相談に乗るたび、連絡が来なくて不安だと泣く親友を見るたび、どうしても結婚したいから我慢すると歯を食いしばるカノジョ達を見るたび、昔の自分に重なって、どうか、これ以上自分をすり減らすような生き方はしないでほしいなと切に願う。

息切らして走ってるそのレース、苦しいなら一旦止まってみてもいいんじゃないかな。
ゴールはたぶん、寄り道してもたどり着くから。