一錠ずつ取り出した薬をゴミ箱に投げ入れた。ティッシュを2、3枚丸めて被せたら、私が捨てたことなんて誰も気が付かない。

中学生2年生のある朝、猛烈な不快感で目が覚めた。
秋だというのに、汗で湿ったパジャマが身体に張り付いていた。身体が重い。体温を測ると40度近くあった。市販の風邪薬を飲んで寝ていたけれど、4日間も熱が下がらなかった。
5日目の朝、首に妙な違和感があった。呻きに近い声を絞り、母を呼んだ。
部屋へ入って来た母は、私の顔を見るなり、顔面蒼白とした。
「あんた、その首、どうしたの!」
母に向けられた鏡の中には、見たことのない程醜い姿の私がいた。私の右頚部には、直径8センチほどの大きなしこりができていた。

悩んだのは友達関係。借りたノートを、そのまま返してしまった

かかりつけ医へ行くと、すぐに大学病院への紹介状を渡された。1日がかりで色々な病棟へ案内され、レントゲン、CT、採血、超音波など、医療ドラマみたいな検査をたくさん受けさせられた。
その日から約半年間、自宅療養をした。週に1度か2度、診療のために通院した。しこりが痛んで体調の悪い日や病院へ行く日は学校を休んで、半不登校状態になった。

週の半分以上を欠席していたけれど、家で毎日教科書を読んでいたので、勉強で後れは取らなかった。
悩んだのは友達関係だ。
以前は、クラス内に一緒に給食を食べたり、教室移動をするような友達グループがいた。けれど、学校へ行かなくなるにつれて、グループの話題についていけなくなった。グループの中で私が発言すると、何となく盛り上がりが下がった。気まずくなって、段々と1人で行動するようになっても、友達の方から私の元へ寄って来ることはなかった。

昼休みに、グループの1人に授業ノートを貸してもらった。休んだ日付のページを開いて、自分のノートへ同じように書き写していった。
教室の前方から笑い声が聞こえて、シャーペンを動かす手を止めた。
ノートを貸してくれた子を含めたグループの子たちが身体をくすぐり合って笑っていた。
数か月前までいたあの輪の中に入れない。昼休みにも関わらず、自分の席に座ったままでいる。
教室内を見回す。クラスメイトの表情がよく見える。声がよく聞こえる。
席から一歩も動けずにいる私は傍観者になろうとすることで、昼休みの教室の空気に殺められまいとした。
冷静になろうとしているのに、妙な緊張感があった。
水族館の大水槽を鑑賞している時、気を抜くと中に引き込まれてしまうような、どこか不安で、怖くて、寂しい、そんな感覚。
大きな水槽の中には様々な種類の魚が泳いでいる。数十匹の魚の群れが泳いでいる。大きな魚が群れの間を横切って、1匹がはぐれてしまった。
私には、笑ったり、ふざけ合ったりする友達はおろか、休んだことを心配してくれる友達や、ノートを取っておいてくれたり、進んで見せてくれる友達すらいなかったのだ。
せっかく貸してもらったノートだったけれど、昼休み中に写し終わらずに、そのまま返してしまった。
同じ教室内で、私は友達の群れからはぐれてしまったのだ。

病気が治ったら、毎日学校へ行かなくてはならない。クスリがゴミ箱へ

その日の夜、夕飯を食べ終えると、手の平に並べた規定量の処方薬を眺めていた。
病気が治ったら、毎日学校へ行かなくてはならない。
私は薬を飲んだフリをして、ゴミ箱へ投げ入れた。それから毎食後、規定量の薬を捨てるようになった。日毎にサイズを小さくしていたしこりは、同じ大きさのまま頚部に留まるようになった。

それから何度目かの診療日のことだった。
「薬、ちゃんと飲んでいますか?」
担当医に怪訝な表情をされてしまった。「おかしいな…」と呟く医者を目の前に、内心激しく動揺した。医者は言った。
「薬が効かないみたいなので、手術で取り出すしかないですね」

見てくれる人は、ちゃんといた。この首の印は「対人距離を測る定規」

しこりの大部分が摘出されて、私の首は、次第に凹凸のない綺麗な肌を取り戻した。
しこりが無くなってしまったら、毎日学校へ行かなくてはならないと悶々としていたけれど、程なくして学年末の終了式を迎えた。中学2年生の終わりは呆気なかった。誰ともクラス替えを惜しむことなく、教室を去った。

今、手術の縫合痕は皺と見紛うほどうっすらと残っている。至近距離で見なければ、まず気が付かないだろう。
その後に出会った多くの人も、私の首にある印に気が付かない。けれど、ほんの数人。夜通し居酒屋で語り合った友人や、肌を合わせた恋人に、「この傷どうしたの?」と聞かれたことがある。
私のことを見てくれる人は、ちゃんといたのだ。そのことに気が付いてから、この首の印を密かに、「対人距離(パーソナル・スペース)を測る定規」と呼んでいる。
群れからはぐれた魚は、大水槽から抜け出して大きな海へ旅に出た。一人ぼっちになった魚は、いずれ新たな出会いを見つける。