ルッキズムという言葉が盛んに取り上げられるようになってきました。

英語でLookism、外見至上主義とも訳されたりしますが、容姿端麗であるひとの価値が高いという考え方ですね。

「美」にそもそも基準なんかないのですが、ひとは、比べて、平均値をとって、格付けをしたがる生き物ですから、どうしてもそういう価値観が生まれてしまうので厄介なものです。

わたしがルッキズムときくと、なぜか脳内に響いてくる歌があります。

それは森高千里さんの「私がオバさんになっても」。森高千里さんのお名前は、10代から20代でも聞いたことがありますかね?有名な曲ですので、いまも街中でよく流れているのを耳にします。

バブル崩壊前夜とはいえ、まだまだ大学生が、夜な夜なディスコでウェイウェイしているのがオシャレ、みたいな空気感のなか、美人で、足が長くてキレイで、ボディコン&ミニスカートをさらりと着こなし、とはいえほどよく自然体で、ウィットに富んだ曲の数々を世に送り出し、しかも作詞もしちゃうというマルチな歌姫(ディーヴァ)、それが森高千里さんでした。

「女ざかりは19」「若い子が好き」トンデモワードがいっぱい

「私がオバさんになっても」は、1992年にリリースされております。

ざっくりいうと、夏休みにサイパンにいったり、オープンカーでドライブしたりする楽しげな仲良しカップルのお話。カノジョはカレシに「女ざかりは19」と言われたことが気にかかっており、そもそも男女は同じように年をとって老いていくというのに、男は若い女にすぐ目がいくから困ったもの。でも「ずっと一緒にいよう」というカレシの言葉と愛情を信じますよ、という内容です(笑)。

今を生きるみなさまにおかれましては、おそらく「はて?」と首をかしげるトンデモワードがいっぱい出てきますね。「女ざかり」とか「若い子が好き」とか……。

当時わたしは高3で受験生でした。女子校におりまして、そのとき、とにかく大学に合格すれば、ようやく女だらけの世界とおさらばして、男がいっぱいいて、すぐカレシができて、恋愛爆発キャンパスライフが待っていると本気で信じていました。夏休みにはカレシとサイパンにいったり、オープンカーでドライブしたりできると思っていたのです。森高千里さん=自分くらいに思っていたのですよ!誰か、そのときのわたしに突っ込んでやってくださいよ!!

はたして、無事に大学デビューしたわたしを待ち受けていたもの、それはぜんぜんモテない!というお約束の現実でした。男たちは、いわゆる「美人」「カワイイ」といった、完膚なきまでの清々しいルッキズムで女を選り好みしていました(……というふうにしか思えなかったんですねえ、本当はそうでもないんですが、そういうことに、そのときは気がつけないものです)。

大学では、男子から、あの子好きなんだよねー、は相談されても、あなたが好きなのでお付き合いお願いします!は一向にナシ!バイト先では、美人ランキングが作られており、上から誘って断られると下へ、ということが公然と行われていて、当然わたしなど圏外もいいところ。とある女友達の家に遊びに行ったら「うちのお兄ちゃんは美人としか話さないの」と言われて、つまりその兄に、わたしとの会話を拒否されたこともあります!

大学生のとき、屈辱的な気持ちで歌っておりました

そう、モテない理由はわたしが美人じゃないからだああああああ!という壁にぶち当たってしまったわけです。そんな日々において、わたしはカラオケで、自信満々で「私がオバさんになっても」を歌うという暴挙にでました、そのときの男性のガッカリした顔といったらもう……。

「お前が森高を歌うな」感がハンパないわけですよ!でもなんか悔しいので歌い続けましたよ。わたしと森高の何が違うっていうんだ!の心意気です(←だから、このへんがもう……笑)。いま男たちがスキスキ言ってる美人だって、この歌みたいに、いずれみんな「オバさん」になるのだ、ざまあ!みたいな気持ちです……もう完全に「呪い」の選曲です!屈辱的な気持ちで歌っておりました。

女子校出身者というのは、このへんの「つまずき」が難しいところがあって、なぜなら、女子校においても、もちろん「あの子が美人だ」みたいのはあるわけですが、いわゆる「ブス」だから特に損するということもないというか……そこに原則として「モテ」は介在しない世界なのです。でも男性がいる社会に出たら、そこは「モテ」を勝ち取らねばならないバトルフィールドなのだ!という、ひとつの現実をつきつけられて動揺するのですね。もちろん女子校出身者全員ではなく、早々に、外見の良さ=モテの価値を知っている子たちもいましたがね。

暗黒時代を抜けると、「モテ」と外見の良し悪しは、実はさほど関係ないと気づきました

しかし、こうした非モテ暗黒時代(長い)を生き抜いてみますと、「美人」が、カレシに3股かけられている、とか、一方「ブス」とされていた女子が、さくさくカレシを乗り換えていくなどの光景をみるにつけ、「モテ」と外見の良し悪しは、実はさほど関係ない、ということに気がつきます。と、同時に、では「美しさ」とは何か?ということもシンプルに考えられるようになってきました。何を「美しい」と感じるかは人それぞれで、だからこそ、その人がどうしてそれを「美しい」と感じるか?を追求することのほうが生きる上で大切なことなのだと。

若いわたしの脳内では、「外見上の美しさ」=「モテ」「男ウケがいい」という単純な図式で刷り込まれてしまって、それがなかなか更新されなかったのですね。

他人は、しょせん他人ですから「美」の基準もバラバラ

そこが「ルッキズム」の怖さで、他人からみた自分に評価の軸を置くことになるので、いつもひとからどう見られているかを、気にしてないといけない。でも他人は、しょせん他人ですから「美」の基準もバラバラで、しかも移ろいやすいので、常に追いかけていくのはしんどいものです。

あのとき森高千里さんは、ちゃんとそのリスクを見抜いていたので「私がオバさんになっても」の歌詞が生まれたのだな、とようやく理解しました。当時最強の「モテ」ルックスを誇っていたからこその、偽らざる気持ちなのだと思います。人は「外見」で幸せになるわけではありません。

さて、ときは2020年。わたしは「私がオバさんになっても」というより、リアルに「私がオバさんになりました」の日々を生きています。森高千里さんは、全くオバさんになったように見えませんが、でもやっぱりオバさんです。オバさんになったら外見は関係なくなるかというと、ぜんぜん世間的な価値観から解放された、という感じはしません。ですが、少なくとも自分で「どうありたいか」を選ぶことができるようになります。

「私がオバさんになっても」はルッキズムへのカウンターソング?

若い世代をいまだに悩ませ、苦しめている「ルッキズム」の話題をみるにつけ、約30年前に森高さんが書いたこの歌詞が、違う意味で、ほんとにいつまでも変わらないな……という重みをもって響いてきます。

もう屈辱を感じることはないけど、今はほろ苦さを噛みしめながら、「ひとは見た目じゃねーんだよおおお」という「ルッキズム」へのカウンターソング(!)として、歌い継いでいかねばという使命感でいっぱいです。