私には、過食の性質があると思う。特にグミが大好きで、1袋なんて軽く食べられる。調子がいいと、2袋の日だってある。この、“調子がいい”というのは、私にとってストレスが溜まった日のことを指す。ストレスが溜まると、なぜか無性にグミを噛みたくなる。仕事で嫌なことがあった時、必ず帰りにコンビニでハードグミを買うのだ。怒りでもぐもぐしながら夜道を歩くと、少しすっきりする。

そんなことが週に何度かあることも、2日続けての時もある。1ヶ月食べない時もある。なるべく違うコンビニを選ぶのだが、帰り道にあるコンビニはたかだか数も知れているから、きっと、どこかの店員は私の癖に気づいているだろう。

もしかすると「グミの女」なんて呼ばれているかもしれない。

不健康ってわかっているけど。ストレス溜まるとグミを過食してしまう

結構なカロリーと見るからに不健康そうな原材料のため、過食後はかなりの罪悪感がある。
しかし、私は食べた後に吐かず、全てを吸収してしまうからタチが悪い。吐いてしまおうと、トイレまで行って試したこともあった。だけど、摂食障害になることの恐ろしさを知っているから実際に吐くことまではできない。そして、ただただ大量のグミをお腹の中で消化していくのだ。

“We are what we eat=私たちは食べたものでできている”というフレーズの通り、私の身体の数パーセントは既に、例えば手とか指とかが、今まで食べてきたハリボーのクマ達よってできている可能性だってある。それはそれで可愛いかも…なんて思うが。

しかし、迫りくるグミの支配からはやはり逃れる必要がある。あまりにも不健康だから。健康的なストレス発散法に変更しようと他の食材も試した。だけど、他のどの食べ物もあの食感とは異なる。どうしても、あの食感を求めてしまうのだ。きっと、飲酒をする人も同じだろう。アルコールにふさわしい代替品がないから、結局戻ってしまうのだろう。そうして、私は飲酒をしないので、グミに辿りついたわけだ。

私はグミを買って食べている自分の姿で、精神状態を認識している

たまに、自分がストレスを感じていることを自覚できない時もある。そんな時、知らないうちにグミを買って食べている自分の姿で、精神状態を認識できる。ああ、疲れていたのだなと自分を労る気持ちがふつふつと出てくる。

以前、双極性障害の人が「鬱状態が来る前にお気に入りの帽子をかぶる癖があるから、それで発症するタイミングを自覚している」と教えてくれたことがあった。その時は「ほう、そういうこともあるのか」くらいにしか感じていなかった。しかし、思い返せば自分も同じではないか。

気分が落ち込む時には、彼女は帽子をかぶり、私はグミを食べる。それぞれの中で精神の法則やスイッチみたいなものが出来上がってしまっているのだろう。そして、きっと他の人にも当てはまることなのだろう。飲酒やチョコレートやカラオケ。それぞれに何かしら落ち込む時のサインが見えているのではないだろうか。

そうして、はたと考えた。私は、彼氏には恥ずかしくてグミを過食してしまうなんて話はできていない。遠距離中だから、見られることはないのだ。帰りの夜道や家の中で独りこそこそ・もぐもぐ食べているだけ。今後有事の時、彼はきっと私のサインを見逃してしまうに違いない。また、彼には彼で何かしらのサインがあるのかもしれない。

無意識で食べているものって、必ず自分の意図があり欲求がある

今まで気にしたこともなかったけれど。もうすぐ5年の付き合いになるけれど、そういったことまでお互いを共有できていなかったことに気づく。このエッセイを書くにあたって、グミの過食について初めて考える機会を設け、そうして彼と話し合うべき課題についてまで考えついたのだった。

何かを食べるという行為には必ず自分の意図があり欲求がある。自分の癖が知らない間に形成されていて、それは自分や他者について知るきっかけになるのかもしれない。

私は今度彼に会ったら、自分の食の癖について話してみようと思う。それと、彼にも何か思い当たることはないかと話し合ってみよう。それで別れることはないだろう、むしろいい方向にいくような気がする。

それに、いい歳をした父と飲酒についても話し合ってみよう。彼の慢性的なストレスのサインだ。「私は少しグミを控えるから、一緒に頑張って父も飲酒を控えてほしい」とか言ってみよう。きっと、それもいい方向にいくに違いない。