上智大学では、いわゆる従来の「ミスコン」を廃止して、2020年には、ジェンダーを問わない新たな「ソフィアンズコンテスト」を開催するというニュースが報じられました。

これまで上智大学のミスコンといえば、ファイナリストになること、入賞することなどが、女子アナへの登竜門として捉えられ、実際にご活躍されている方々もたくさんいます。
わたしはテレビの仕事をしていますので「女子アナ」という方々と接する機会もあるのですが、たしかに大学の「ミスコン」を経由してきた方が多いですね。
ただここ最近の、「ルッキズム(外見至上主義)」批判や男女別などジェンダー的に問題なのではないかという声の高まりなどをうけて、こうした判断になったようですね。

なんでウェディングドレス着ないといけないのですかね?

さて、わたしの大学ミスコンのイメージはというと、ファイナルに出場する女子が、なぜか着ているウェディングドレス。そして、それを出場者も、審査員も、観客もすんなり受け入れているのがスーパー謎すぎるというもの……。

いや、待てよ、わたしもウェディングドレスを着てミスコンに出たことがありました!7歳くらいのときに、デパートの子供服売り場のイベントで、ウェディングドレスを着てポラロイドを撮影、その写真を掲示板にはって、カワイイ子を選ぶ!みたいな企画でした。

親バカゴコロを煽るこの企画の写真がいまも残っていますが、わたしは今に至るまで結婚してないので、ウェディングドレス姿で父親とヴァージンロードを歩き、感謝の手紙など読み上げる的な親孝行と無縁です。親もそんな我が子の未来を第六感で察知し、その姿をみるなら、今しかない!と思ったのかもしれません(笑)。

それはともかくとして、なんで結婚もしないのに、ミスコンでウェディングドレスなんか着ないといけないのですかね?

花嫁が「白」をまとう理由とは、あなた(結婚相手)以外の、何ものにも染まらないピュアさの象徴として、花嫁がまとう色。しかし、大学ミスコンでは、なんのための「一途なピュアさ」を求められているのでしょうか?

「お嫁さん候補」という言葉は、たいがい死語になってきたと思っていたのですが、大学ミスコンの世界はそういう「お見合い」要素の延長線上にあるのでしょうか?では、審査をするひとたちは「いいお嫁さんになりそう」という目線でみるのでしょうか?ということは、「女子アナ」も「いいお嫁さんになりそう」な女性を採用したいということにも……?文化人類学の偉い先生にぜひ分析してほしいと思っています。

「ルッキズム」だけじゃない、大学ミスコンの闇

今回の上智大学の新たな「ソフィアンズコンテスト」では、コンテスト実行委員会により「性別も国籍も関係なく、多様性を尊重するということがこのコンテストの理念であり、ジェンダー問題に向き合い、時代に合った革新的な企画運営に努めてまいります」との宣言が出されています。

以下の3つの部門ごとに候補者を審査し、固定ポイント制で合計点が最も高かった候補者がグランプリに選ばれる、という仕組みだそうです。

①SDGs部門(インフルエンサーとしての、社会的な影響力をアピールする。候補者は自分で選んだSDGsのアジェンダに関わる活動を行い、その発信をSNSなどで行う)

②スピーチ部門

③自己PR部門

Sophian's Contest(ソフィアンズコンテスト)

こ…これどうやって審査するんですか…テレビの仕事で、キャスティングをやっている私でもめちゃくちゃ難しいんですけど!

外見磨きも怠らず、人にも優しく、社会にも貢献し、仕事も最適化し、プライベートでの人間関係も充実…とかどんなスーパーマンですか?!もし、この条件を備えているならば、その人は、何に向かっているんですか?!

従来のミスコンが「女子アナへの登竜門」であったことにもつながるのですが、「就活」ということが大きな影響力を及ぼしているように感じてしまいます。「大学ミスコン」にはいっぱい企業の協賛がついていますよね。企業にしても、学生にしても就活の最前線であるということです。

しかし、忘れないでくださいよ?つい最近まで、いや今このときも「ウェディングドレス姿に疑いもなく、美しさとピュアさをアピールする女性が好き」という企業の精神が消えたとでも思いますか?

これは、社会に出ても同じです。巷にあふれるさまざまな、地方の名産品ミスコンテスト、なんじゃこりゃ?!ていうものもたくさんありますね、あれどうして存在するか考えてみてください。

いつでも「コンテスト」というものは、本当は「誰のために?」「なんのために?」競わされているのか?努力させられているのか?という背景を見極めないと、「美しさ」や「輝き」なんていう美辞麗句とは無縁の、容赦ない弱肉強食のビジネス砂漠が広がっていたりします。

“選ばれること”を選んだということを忘れないで

それでもまだ「これは、わたしがやりたくてやっています」「わたし自身への努力が財産になるので」とかいう声が聞こえてきそうですが……。

そもそも、その「キレイ」の、その「賢さ」の、その「努力」の基準は、なんでしょうか?コンテストの審査基準というのは、なにかあるわけですね、この社会についてもなにか「コンテスト」的な基準や、とらえ方は自分の中にありませんか?それに気がつくと、悔しさや怒りが出てくる、というひともいると思います。悲しい思いをすることもあります。

「コンテスト」というのは、常に自分の基準や考え方よりも、誰かの基準や考え方のほうが優勢な状況に身を置くということですね、それは「選ばれる」ことに価値を見出すことです。もちろんそういうことは、社会で生きていればいくらでもあります。

でも、常に「いま、わたしはじぶんの意思で“選ばれる”ことを選んだ」という思いを、どこか脳内の片隅にかならず残しておいてほしいです。どんなに落ち込んでも、誰かと比べてちっぽけな自分だと思うときも、自分の人生の舵をとるのは自分ですからね。