死に物狂いでチャンスを掴んだ、思い出深い海外留学

私の宝物は、海外に留学した思い出だ。
高校と大学時代、ニューヨーク・フィンランド・フロリダに留学し、それぞれ私の一夏を過ごした。
どれも夏季休暇の間であり、各々2ヶ月程度の滞在だ。「夏の間にバカンスに行ってきました」みたいな優雅な話ではなく、死に物狂いで奨学金を得て、その上毎日アルバイトをして掴んだチャンスだった。現地では楽しい思い出もあれば、アジア人で英語もうまく話せないと馬鹿にされ泣きそうになった切ない思い出もある。出会った人の中で、冷たい態度の人もいれば、天使のように優しい人もいた。その3回の渡航全てにおいて、愛まで育たなかった短い恋もした。

そういうすべての思い出をひっくるめて、何にも代えがたい私の宝物だ。今ではその1つ1つの思い出が私の芯となっていて、思い出す度にじんわりと中から温めてくれたりする。

日本とは異なる開放的でポジティブなフロリダの避難所生活

そのかけがえのない思い出の中の1つを紹介したいと思う。

それは、フロリダに留学した時の話だ。私が滞在していたときに、ちょうどハリケーン・イルマという大規模な自然災害が起きた。家が倒壊する恐れがあるため、人々は地域の高校の体育館に避難した。私もホストマザーとともに避難し、そこで看護学生のボランティアに参加した。3泊4日の間泊まり込みで参加し、いろいろな人に関わった。ボランティア学生、警察官、高齢者や子供、糖尿病や精神病など持病のある人など、とにかく地域におけるあらゆる種類の人がいたと言ってもいいだろう。その日々の中で、数えきれないほど多くのものを目にした。

アメリカ人の用意は周到で、ハリケーンのくる2日前から避難所に移動していた。災害のタイミングが"予期できる"ことが決め手なのだろう。日本のテレビで見る避難所の光景とは大きく異なっていた。

まず、地域の住民はエアベッドを持参しており、ふかふかのベッドが体育館の至る所にあった。皆、ハリケーン用に自宅に常備しているという。食堂では、地域住民が楽器を持参して演奏し、子供たちがそれに群がり、楽しそうに踊っていた。歌う者もいた。教室では、マジックを披露する住民がいたり、体育館の真ん中でジェスチャーゲームで大騒ぎする若者もいたりした。パーテーションはなく、開放的な雰囲気で、異国の避難所でも不思議と怖さを感じなかった。どうせなら楽しもうぜ、という彼らのポジティブさが私にいい意味で染み込んだ。

災害ボランティアを通じて経験したさまざまな出会い

しかし、全く怖くなかったかと聞かれれば、それはNOになる。ハリケーンの襲来で、避難所ごと吹き飛ばされるのでは無いかと心配で眠れない夜もあった。日本人はくたばれと叫ぶ戦争の経験者に出会ったり(これは他のエッセイにて詳細を書いている)、40代くらいのおじさんに言い寄られてアドレスを聞かれ、全てが終わったら海までドライブに行こうと誘われたりもした。心細そうな留学生を狙っていたのだろう。避難所においてもそういったチャンスを常に狙っている人がいるのだと、恐ろしくなった。ホストマザーや友人の影に隠れ、その人から逃げるようにしてそこでの日々を過ごした。

その代わりに、避難所では単なる留学だけでは出会えなかった色んな人と関わりを持つことができた。新しい友達ができたり、後々に現地でデートをするようになった男の人(おじさんではない)にも出会えた。小さな子供とトランプをしたり、体育館でバスケやサッカーをして地元の人と楽しめたりもした。

勇気をもってしてきた1つ1つの選択が、今の私の宝物

正直にいうと、避難所に行く決断は勇気が必要だった。ハリケーン襲来が確定した時、避難所に行ってボランティアをするか、家で物をたくさん買い込んで大人しく籠るかとホストマザーに選択を迫られた。あの時にボランティアを選んで良かったと今では強く感じる。「自分の心地よい場所から抜け出してみよう」という言葉が個人的に好きで、実際に自分がしてきた決断を振り返ると、上記のような何にも代えがたい経験を積むことができた。あんなにすごいことをフロリダで見てきたんだよなあ、私。なんて、自分に酔ったりすることもある。思いもよらぬ選択が、後々の自分を形成することだってあるのだ。

ここで、留学経験が私の宝物だという冒頭での言葉を撤回しよう。
「私のしてきた選択」が巡りに巡って、今の私の宝物になっているのだろう。