「ねぇ、キスしようよ」――私たちは小学5年生だった。
塾帰りのバスの中、大人に聞かれちゃいけないナイショ話をする様にこっそりと私の耳に唇を寄せて囁いたのは、可愛い女の子だった。

「女の子」が可愛くあるために色んな努力をしているのって、いいな

幼馴染みのYちゃんは、私より身長が10cm以上低かった。いつもお洒落な格好をしていて、ちょっとおませさん。私と知り合ってからは、いつも彼氏がいた。唇から爪の先まで整えられていて、低い位置から見上げる上目遣いがキュートな子だった。
多分、自分が可愛いことを分かっててやってるんだろう、その強かさも含めて好ましい子だった。

女の子って生き物は、可愛くあるために色んな努力をしている。そのいじらしさは、私にはないものだから単純にとても「いいな」と思っていた。その「いいな」は言い換えると「なんかすげえな」であり、決して恋愛的な意味ではない。

私は、恋愛について圧倒的に経験不足だと思う。興味がないし、誰かに抱いた感情が恋慕なのかも分からない。彼氏がほしいと思ったことはないけれど、理解者が欲しいと思うことはある。それは小学生の頃からあまり変わっていなくて、なんとなくそれがマジョリティではないことは察していた。

Yちゃんに「キスしようよ」と言われた時、とてもびっくりした。なんでそんなこと言うんだろうと思いながら「でもここ、バスの中だからやめておこうよ」と言って受け流した。オイオイ、バスの中じゃなかったらいいのかよ。実際私は、Yちゃんがしたいならいいと思っていた、キスくらい減るもんでもないし。そこになんの感情があるのかさえよく分からなかった。

私は女の子と話す時、彼氏みたいな立ち位置にいることがある

中学生になってからも、彼女との交流は続いた。Yちゃんは私と遊ぶことを「デート」と呼んで、ミニスカートに襟ぐりが開いた服を着てくるものだから「寒くないの?」とか「肌見せすぎじゃない?」とか言ったら「おじさんみたいなこと言わないでよ」とけらけら笑われたりした。「なんかいいな」と思った。そう振る舞うのが、そう扱われるのがすごく楽だった。

私は女の子と話す時、彼氏みたいな立ち位置にいることがある。男になりたいわけではないし、相手を恋愛的な意味で好きなわけではないけれど、そういう言動をすると女の子は喜んでくれる。可愛い子が笑うと私はテンションが上がるし、向こうもそんなに嫌な気はしないだろうからwin-winだ。その程度の認識。

女らしさや女性であることに対して、昨今様々な議論がなされている。そのどれを見ても「女の子って大変だな」と他人事のように思う。私は、女であることを捨てたわけではないけれど、“世間から求められるような女性”でいようと思ったことがないからかもしれない。それは、私がそう振る舞うことを周りが許してくれているからかもしれないと近頃よく思う。

多様な生き方の中、私の振る舞いも一つの手段として悪くはないと思う

女の子であることに真っ直ぐな女性を私はすごいと思うし、それが「いいな」に繋がって彼氏みたいな振る舞いに落ち着いたのかもしれない。その形がいびつでも、生きやすさに繋がっていることは確かだ。

たまにその役割を放り投げたくなる時があって、それについて考えることが増えたけど今の私にとっては、そう悪くないポジション。

この先どういう立ち位置を選択するかはまた考えるとして、その位置に自分を置くことは女が生きる一つの手段として悪くはないと思う。