人は誰だってさびしさを抱えているものだ。
眠れずに誰かを求める夜も、仕事で失敗して泣きながら帰る日も、なんの約束もない休日も、さびしさを感じるタイミングっていうのは、日常によくよく潜んでいるものだ。
そういうとき、あなたはどうやって過ごしてる?
さびしいときにどういう行動をするかで、いい女かどうか分かれるんじゃあないかと私は考えている。

「自分のために」時間を費やすことのできる人は、とても魅力的

さびしさを埋めてほしい、誰かに。さびしさが、他人の存在を求めさせる。それは報われたり、報われなかったりするけれど、心を許せる友人や恋人がいる人は、そのさびしさを誤魔化すことができる。

でも、私はさびしさを飲み込んで、ひとりで抱えようとする人が好きだ。そこに、“言わないが故のうつくしさ”を感じてしまう。これこそが、いい女じゃあないかと。

もう少し詳しく書いてみよう。さびしさをひとりで抱えようとするということは、さびしいときひとりで映画を観たり、本を読んだり、ボーッと過ごしたり、ひとりの時間を過ごすということだ。当然さびしいのだから、苦しい。ほろっと泣くことなんて、当然だ。ひどいときは、顔をぐしゃぐしゃにして泣き喚くこともある。

でも、そういう誰とも関わらない時間って、私だけのもので、間違いなく私のために生きている時間といえるんじゃないだろうか。私はそういうものに、とても価値を感じる。自分のために、自分の時間を費やすことのできる人が、とても魅力的だと思うのだ。

本能に逆らうように「さびしさ」を押さえつけることは難しいし苦しい

さびしさを理由にして他人を求めてしまうのは、すごく簡単なことだ。嫌な言い方をすると、ネットだと女性というだけでチヤホヤしてもらえることもある。簡単にさびしさを満たそうとするツールのある世界が、すでにできてしまっている。『かまってちゃん』なんて言われたり、ひどいときには『メンヘラ』と言われてしまう人たち。

でも、さびしさで他人を求めるのは、すごく本能的な行為だと思う。だから、それは自然なことでもあるのだ。

だからこそ、さびしさを抱えるのは難しいし苦しい。本能に逆らうように、理性によって自分を押さえつける行為だから。でも、そのさびしさを越えた先で、私は誰かに会いたいと思っている。

さびしくて仕方がなかった夜に「こんな映画観てポロポロ泣いたんです」「こういう本を読んで少しだけ笑えたんです」そういう話を、私は誰かとしたい。ちなみに私は、最近仕事で大失敗をした夜、誰にも愚痴をこぼさず、映画『この世界の片隅に』を観て「私の不幸なんぞ甘っちょろいもんだ」とダラダラ泣きました。そういう夜が、女には必要なのです。

簡単に誰かと繋がれる今の時代、本当に「いい女」って?

この時代、簡単に誰かと繋がることのできる世界の中で、ひとりぽっちの時間を必死に守ることができる人。
そういう人を『いい女』と、呼ぶんじゃあないでしょうか。