"羨ましい"という感情が嫌いだ、どろりとした汚い感情はゆくゆくは"妬ましい"と名前を変えて私の心を蝕んでいく。その人が今に至るまでにどんな経験を積んだかなんて見もせずに、私の前にいる一瞬だけを切り取って"あなたみたいになりたかった"と思うのは失礼極まりないと思う。そんなことを思ってしまった自分のはしたなさに落ち込む。なるべくならば自分は自分、人は人と思って生きていきたい。だけれど人は、羨ましいという気持ちを排除して生きることはできないのかもしれない。

可愛いアイドルを見れば「あの顔で生きられたらメイクするのも楽しいだろうな」と思うし、美人なモデルさんを見れば「あのスタイルがあればどんな服でも楽しく着られるだろうな」と思う。遠い芸能人に対してそう思っているうちは"憧れ"として自分の中に溜まっていくだけでそんなに害はないだろう。あんな風になりたい!という勢いで美容に気を遣ったり、服装を変えたりすることはむしろポジティブな変化だ。だけれど、身近な人を羨ましいと思ってしまった時の息苦しさったらない。どうしても自分と比較してしまうから。

本当は分かっている、自分の問題だってことは。

あなたは私にはなれないし、私もあなたにはなれない。私は私の人生を生きるしかない。そう思って暮らしていても、やっぱり"何かになれなかった自分"がいつもどこかしらに潜んでいて、素敵な人を見ると隠れていた陰鬱な感情が浮かび上がってきてしまう。本当はこんなはずじゃなかった、私だってできたはずなのに、次から次へと思い描いていた自分と今の自分の差ばかり目についてしまって、苦しくなる。それが煮詰まった先にはキラキラしている人へ向ける"羨ましい"が待っている。

本当は分かっている、自分の問題だってことは。なりたかった自分になれないことは私の選択で、今からだって頑張れば何にだってなれるはずだってこと。私が羨む人だって沢山の努力をして今を手に入れているってこと。理性では分かっていても、ふっと浮かび上がってしまう気持ちを無かったことにはできないと感じるようになってきた。羨ましいと感じる自分も、私の一部なのだ。私は私に優しく生きたい。羨ましいという気持ちを人にぶつけることはダメだけど、羨ましいと感じる自分のことは認めてあげようと思うのだ。

他人から向けられる「羨ましい」という言葉は無責任で簡単だ

中には羨ましいと感じる自分を許せていないような人もいるし、その感情を苛立ちと共に他人に向けてしまう人もいる。他人から向けられる「羨ましい」という言葉は無責任で簡単だ、それが分かっていても親しいと思っていた人から向けられる無自覚のそれは私をひどく傷つける。他人の感情を受け止めすぎてしまうのもまた、生きることを難しくしている理由の一つだろう。

どんな風に生きていたって「あなたはそういう風に生きられていいよね」というニュアンスの言葉をかけてくる人はいる。絶対そんなこと思ってないでしょ?嫌味か?と思うこともあるし、実際嫌味なのだろう。最近気付いたのだけれど、楽しく生きていてもうつうつとしてじめじめ生きていても、どちらにせよ何かを言ってくる人はいるということだ。私はそれに気がつくまで、どうしてそんなことを言われるんだろう。何故、そんなことを言われなきゃいけないんだろう。そんな風に悩んでいた。

自分を慰められるのは自分だけなのかもしれない

もし、同じようなことで自分を責めたり、苦しんだりしている人がいたら知ってほしい。あなたがどう生きていても羨ましいという感情を容易に向けてくる人はいるし、それはあなたのせいじゃない。あなたが気をつけなくてはいけないのは、自分の中に羨ましいという感情が湧いた時にどうすべきか、それだけだ。

人にぶつけず、けれどもその感情を無視しない。そう思ってしまう理由や、自分の頑張っているところを見つけてあげる。結局は、自分を慰められるのは自分だけなのかもしれないと思う、今日この頃。