互いに殺意を抱えて暮らしていた日々 母と私はよく似ている

母と娘というのはなにかしら確執があるものだ。
やはり父と娘、とは違う。同性間というのは、なにかとお互いの醜さが透けて見えてしまって、打算的な行動などすぐに真意が筒抜けになってしまう。
「あの時、殺した方がいいんじゃないかと思ってた」
母がそう言ったのは、私が中学生の頃のことを思い起こしていたからだ。
あれはつらい時代だった。母にとってはもちろん、私にとってもつらかった。
そして、私は母に言えずにいる。否、言わずにいる。本当はあの時、私だって、母を殺したいと考えていたことについて。
私はあんまりネット上で精神疾患について書くのが好きじゃない。なんだかわざとらしく響いて嫌なのだけれど、書かないことには仕方がない。
私は中学二年生の時、うつ病を発症した。それはのちに境界性パーソナリティ障害になり、双極性障害へと名前の変化を遂げるのだけれども、とにかく私はベッドの上から起き上がれない「うつ状態」になった。
学校にも行かなくなり、必然的に私の世界は自宅だけになってしまった。
中学生といえば反抗期で、私はそこまでひどくないにしろ、親に対する反発心が強まっていた。
その上うつがあり、自分の体や心が言うことを聞かないことへの戸惑い、希死念慮への苛立ちや絶望があり、家族にあたることもあった。
もう死にたい、は常套句だった。飛び降りようとしたこともある。閉鎖病棟に入院したこともある。
散々だった。
「どうして学校に行けないの?」
母にまだ理解がなかった時、よくそう言われた。なだめるようなやさしい声色で、でも、目に光が宿っていなかった。
「どうして!」
そう言って叩かれたこともあった。
私はなんと説明すればいいのかわからなかった。病院に行って診断を受けてから、母は私が本当に学校に行けないことをやっと理解したようだった。
でも、それは諦めであって、母の不安を駆り立てるばかりだったのだろう。
それから母は、私にとやかく言うことをやめた。
それは私にとって、良い影響も、悪い影響ももたらした。矛先が私ではなく弟に向かって、弟へ強い期待を抱くようになったり、私にはなにも言わず無視をすることも出てくるようになった。
私は夜中、家族が寝静まった後で包丁を握ったことがある。その手を、眠っている母に向けていた。
私は怖かった。でも同時に理解していた。
このつらさやかなしみは私だけのものであって、気が狂えど結局理性だけは残るのだ、そう考えていた。
ふるえながら、私はその手を下ろした。
あの頃、私はいつか、家族を殺してしまうと思いこんでいた。それが怖くてよく泣いた。
殺すくらいなら、自殺でもした方が良いのだと思っていた。
その考えが張り付いて離れない、あの時代は本当につらかった。
今では、私の症状が和らぎ、その頃のことを母と懐かしく語り合うこともできるようになった。
あの時、私と母は間違いなく死に近い場所で暮らしていた。
「母を殺してしまいそうになることが怖かった」
それは私が言えない、あの頃の私が閉じ込めた言葉だ。
母と娘は、よく似ているものなのかもしれない。同じ殺意を、きっと抱えていたのだから。
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