自分の文章で稼ぎたいと思う私を、怪訝な表情で見る知人

かがみよかがみに投稿するようになって度々思うことがある。私はやはり、執筆でお金を稼ぎたいのだ。

以前知人に「執筆で稼ぎたい」と言ったら「どうしてですか?」と少し嫌そうな顔をされた。「感想を貰ったり、誰かのためになればそれだけで良くないですか?」と。私は「あぁ、本当にそういう考え方の人っているんだ」と内心驚きつつ、この人は自分の文章がどう消費されるか考えたことがないんだろうなと、ぼんやり思った。

書くだけなら今までも呼吸をするのと同じようにやってきた。日記、小説、SNS、時代と共に形を変えていったけれど、一文字も書かなかった日なんてない。汚らしい、見せるに耐えない感情のかけらを作品として仕上げ、賞レースやかがみよかがみなどに投稿しているのは勿論報酬のためだ。生きるためのお金=生活資金を自分の文章で稼ぎたいと思うから。だって、生きるのにはこんなにもお金がかかる。

どれだけ本が売れても専業作家では生計が立てられないと言われるこの時代、私は作家業に夢は抱いていない。作家になって売れることや自分の本がずらりと店に並ぶことを夢に見たことはない。ちまちましたことを書いて、塵も積もれば山となる精神で文章でほんの僅かな錬金をできればいいと思っている。

”お金が欲しい”という理由で創作活動をするのは、はしたないのか

言い方がストレート過ぎるのか、一部の"お金アレルギー"の方達に怪訝な顔をされる場合がある。どうにもこの世の中は"お金が欲しい"という理由で創作活動をするのは、はしたないという風潮がある気がする。

感想はありがたいけれど、人から言葉をもらうために書いているわけではないので、あまりピンとこない。文章を読んだ人が何かを得てくれるならばそれはとても嬉しいことだけれど、それは読み手の感じる力が優れていたからであって、書き手の私のおかげではない。私の文章から何かを感じられる人はきっと、他のなにからでもいろんなものを吸収できる人なのだろう。

金額の大きさは気にしていない。「あなたの作品に金を払ってもいいと思った」という評価が私にとっては大事だったりする。それはイコール、私が生きていくためのお金になるのだから、スーパーポジティブに考えれば私に生きていてほしいと思ったと解釈できるからだ。物は考えようである。

評価されることを目標にせず、値段がつく商品を目指して執筆したい

私は特に傷つくことを恐れている。誰か評価されることを目標に書いていたら、自分の生み出した文章がたった数分で消費されることに耐えられないかもしれない。書くということはエネルギーがいるし、心のうちをさらけだすことだから、それが批判されれば自分自身の価値を否定された気分になってしまうかもしれない。

その点、値段がつく商品を目指して書き続けていればいいのは楽だ。作り上げたものはあくまで一定の評価ラインを超えただけであり、それが私の全てではないと胸を張って言える。たった何千字の文章で私の考え全てを書き切ることはできないし、逆を言えば読み切ることだってできないのだ。

私の今後の課題は10個書けば10個とも値段がつくようになることである。物を書くということは私にとって一つの作業だ。そんな人がいても、いいと思う。