「すべてを無条件に受け入れてあげられるのが愛」なんて言うけれど、誰かを盲目的に愛することがもし仮に出来たとしたら、その実は相手の何も見ていないのと同じなのではなかろうか。

ある人が保有する1000の特徴があるとして、その1000すべてに愛を抱くことは不自然だと思うのだ。

人は生まれてから死ぬまで、絶対にやり直しのきかないような失敗や、誰にも言えない苦悩、納得できっこない想いや自己矛盾を抱えながら生きて行く。複雑な感情や経験を背負い、傷を押さえて毎日必死に前を向いて進もうとしている個人と個人が見つめ合ったときにこそ、傷つけ合いが起こるのであり、また、共鳴することもできる。

相手が抱える幾多の矛盾を心得て、その人の欠点を把握し、関わることが自分に及ぼし得る被害の大きさも十分に了解する。その上で、相手の他の部分に抱く愛情を自分の中で選びとって優先させ、その人に向き合い続ける行為こそが愛なのではないかと思う。

私の母は、人の愛し方を等身大で教えてくれた。

バブリーにバリキャリの母。内側から蝕んでいったのは結婚生活だった

代々続く京都の家に生まれた社長令嬢として、何不自由ない生活をしながらも環境に甘えることなく、まだ留学自体が珍しかった80年代に給付奨学金を勝ち取ってアメリカへ留学。女の子に学は要らないという家父長制の社会に屈することなく自力で大学を卒業し、当時は男性医師と同等の稼ぎを得ることができたと言われる国際線の客室乗務員に100倍の試験を勝ち抜いて就職。両親には多額の仕送りをし、バブル期の日本と外国を渡り歩いてたくさんの世界を見てきた。我ながら、カッコ良すぎる母の経歴である。

物心つく前から毎年長期休みのたびに様々な遠い国へ連れて行ってくれ、多角的に物事を見られるようにとたくさんの世界を見せてくれた母の想いは、いまの私の活動原点になっていると感じる。

でもそれが運の尽きか、結婚生活は順風満帆とは言えなかった。独立したばかりで安定しなかった父を支え大黒柱として文字通り飛び回って働く一方、まだ幼い姉と私の子育てにも追われ、体力だけでなく感情面でも困難を強いられる生活。苦労に苦労を重ねる日々を何年も続け、ついに内側から病気が体を蝕むようになってしまった。

「失われた思春期」と卑屈な感情。環境のせいにするという甘え

私が中学1年生になったばかりの時に、母の持病は見つかった。度重なる検査や入院に当時12歳だった私は心がついていけず、また長期戦となった治療生活のなかで、家にほとんどおらず頼りにできない父親や高校生活で多忙な姉に変わって母を精神的にサポートするのが自分の役目だと感じるようになり、どんなに苦しいタイミングでも感情を押し殺して明るく振る舞うのが常に。

ティーンエイジの初めというのは、全ての力を抜いて精神的に寄りかかれる大人の存在が必要不可欠な時期である。20代も半ばになった今の私は、誰かに自分の感情をダイレクトに伝えることが未だできず、対人関係でうまくいかないことがあるとこの「失われた思春期」に全ての責任を問うてしまうことが良くある。

思春期の大事な時期に長期的な対人関係の構築に最も重要な考えや感情などを共有してこなかったため、母と私の間には誤解が生まれやすく、心配性の母に何かにつけて口をだされるたびに否定されたと感じてすぐ反発してしまうプチ反抗期もあった。

そんなわけで高校からせっせと「独立計画」を進め、全額給付奨学金プログラムを見つけては高校でも大学でも海外に”逃亡”した。海外大学院進学計画に至っては正規生として入学・卒業することで現地の就労許可を得て、もう一生故郷には帰ってこないくらいのつもりでいた。

暖かい家庭で両親から全身全霊の愛とサポートを受けてすくすく育ち、自分の勉強や進路に関してだけ集中して悩んでいれば良いような環境で育った同級生たちに対して、僻んでしまうことも少なくない。でも、「なんで私だけ」「なんであの子は」と卑屈な感情や劣等感が渦巻くたび、すべて母や環境のせいにすることで自分の欠点を見ないように自己防衛して甘えていた自分の根性が、いまならわかる。

精一杯の愛が、届きますように。

いま大人になって、一人の人間として、女性として、母を心から尊敬する。

生きていく中で、誰もがそうであるように、母は環境要因や人間関係の中で自身にはどうすることもできない葛藤や矛盾、災難に出会った。それが結婚という外的な要素に起因していたために、私の成長過程で100%のサポートが苛まれた場面もあったのだろう。でも、その中で必死に頑張り続けた結果、娘の私が無事に大人になってたどり着いたこの場所から見ている世界を想うとき、私は本当に母が誇らしい。

もちろん私の一個人の感情として、成長過程で受けた痛みや消化しきれていない感情、矛盾、母という人間と対峙した時に受け入れられない箇所も存在することは確かだ。

でも、それらを自分の人生における全ての失敗の主格犯に仕立てあげ、以前のように見捨てて逃げるなんていう発想は、いつしか消えていた。

私が小学生になってからは復帰していた大好きな仕事を治療に専念するため辞め、それまで息をするようにしていた海外旅行を気軽に出来なくなってしまった母。今度は、私が世界を見せてあげる番だ。

本当は言えなかったし、聞かれればいまでも照れて「日本脱出計画」をほざくのだろうけど、実は大学院を4カ国で学ぶプログラムにしたのはキャリアが始まり日常生活を食い荒らされる前に、この先どのくらい長く一緒にいられるかもう分からない母と、世界中を歩いて、美味しいものを食べて、綺麗なものをみて、たくさんたくさん思い出を残したかったからだ。

口喧嘩をしてイライラするたび、否定をされてムッとするたび、思春期に失われた機会費用を母一人に請求しそうになるたび、私はその感情を認め、受け入れつつ、それでも自分の中のプラスの感情を選択し続ける強さを大事にする。

それが私にとっての、精一杯の愛だから。