私の家族は、変わっていた。母はヒステリック、父はほぼ家におらず、姉は障害を持ち、次女である私は出来が悪い。家の中では、常に怒号と泣き声が飛び交っており、家庭の体を成していなかった。

だけれども、人一倍見栄と普通を重んじる家庭で育った母は、弛まぬ努力で我が家を普通の一般家庭にしようとしていた。

母が思い描く「普通の家族」としての旅行は、失敗が許されなかった

そのうちの一つが、長期休暇は旅行に出かけることだった。

「かなちゃんの受験終わってからグアムに行くから」と母に言われ、私の人生初めての海外旅行は小学6年生の冬、唐突に決まった。中学受験を済ませたら、小学校を休んでグアムに1週間行くという。

海は疲れるから嫌いだし、これまで家族旅行を思えば、学校へ行く方が楽しい事は確かだったため物凄く嫌だった。けど、母の提案は既に決定事項であるため、私に拒否権はなかった。

グアム旅行の準備は、およそ2週間前から始まる。1週間分の洋服や肌着、何日に何を着て、どの鞄にどう詰めるかを決めるため、洗濯との兼ね合いを考え、毎日着る服を選ばないといけなかった。

「お気に入りの服でグアムに行きたいでしょ?」と母は言うが、私は受験の日にお気に入りの服を着て行きたかった。無論、そんなことは許されない。母にとっての普通の家族は、旅行でとびきりのおしゃれをするものだからだ。

次に決めるのは、お土産だ。誰に何をどれくらいの金額のものを買うか、リストアップしていく。クラスメイトや祖父母、お世話になった先生…。グアムでは何日目にどこのショッピングモールへ行くから、そこではこれが売っている。だから、ここでこれを買うこと。そんな風にガイドブックを開いて、一つずつ決めていく。現地で可愛いなと思うものがあっても、決められたもの以外を買うのは許されない。失敗しては困るからだ。

服にお土産、そしてタイムスケジュールまで「細かく決める」家族旅行

そして、最後にタイムスケジュールを決めなくてはならない。何時に起きて、何時までに家を出て、何時の飛行機に乗り、何時に昼ご飯を食べ…。2日目は朝食バイキングが何時からで、その後何時からどこへ行き、持ち物はこれとこれ…。行く前、日本で全てをノートに書き出して、旅のしおりを作るのだ。決まったタイムスケジュールを破ることは許されない、イレギュラーは起こしてはならないのだ。

こんな風であったから、私は非常に旅行が嫌いだった。一般の方は全く理解が及ばない狂気の沙汰だと思うし、私も「旅行ってめっちゃ疲れるな、よくみんな行くなぁ」と思っていたが、私が鈍い子供で良かったものである。明らかに普通の旅行ではない。

だが今の私は、母がなぜそんなことをしたか、容易に想像がついてしまうのだ。母は、普通に憧れていた。家族仲良く観光地を巡り、お土産を買い、自然と触れ合い、ホテルで眠る、笑顔耐えない旅行に憧れるがあまり、型通りに進めれば楽しいはずだと思い込んでいたのだ。

しかし、それでは本末転倒である。“楽しそうな人がしていることをすれば楽しくなるはずだ”と思ったのだろう、“私たち家族だけの楽しさ”を探すことはしなかった。普通を追い求めるあまり、気持ちを日本に置いていってしまったのだ。

自分の楽しさややりたい気持ちを「置き去り」にしていないだろうか?

我が家ほど極端な例は少ないだろうが、この現象は多かれ少なかれ、みんなに当てはまる。普通のイケてる子はみんなそうしてるから、インスタ映えスポットに行ったら写真を撮るもの。普通の女の子はスカートだから、スラックスは穿かない。旅行の話と違うようだが、本質は同じだ。自分の楽しさや、やりたい気持ちを置き去りにしてしまっている。

インスタに写真をあげることが楽しいなら、それは間違っていない。でも、本当は写真を撮るよりじっくり観たいのに、急かされるように撮るのなら、“普通”に惑わされている。

スカートが穿きたくて、穿いているなら間違っていない。でも、スラックスが穿きたいのに、女の子だからと避けているなら、それは自分の気持ちを見ないことにしているのかもしれない。

世間では、普通であることを求められる機会が多すぎる。普通の人が幸せで、普通の人になれば幸せになれると、勘違いしている人も増えた。幸せと普通は、イコールではないと思う。