ハタチくらいのころ、Pepperくんになりたいと思っていた。というのもかつて通っていた大学がなかなかやばいところで、女も男も暇さえあれば人の身体にずけずけとコメントしまくっていたからだ。

ひどいことを言われたくなくて縮こまっていたけれど、人間であるかぎりは見た目のジャッジからは免れない。だからいっそのこと、綺麗や不細工といった基準から外れた生き物になりたいと、Pepperくんをうらめしく思った。

いつも聞かされる誰かの見た目話。私も言われているかもと怯えていた

大学では毎日のように、先輩たちからこんな話を聞かされていた。
「〇〇さんは足が太いのにすごく短いショートパンツをはいていた」「○○はせっかく痩せていたのに太ったからブスになった」「○○ちゃんのゴツい骨格でああいうテイストの服は似合わない」
これらのジャッジはぜんぶ、その場にいない人に対して行われていた。自分が言われたわけではないけど、あまりの容赦のなさにショックを受けた。

ディスられている人はみんな、別に美を競うコンテストに出ているわけでもなく、芸能人でもなく、ただフツーに生きていただけなのに!(誰の見た目も否定すべきではないけれど)

人の見た目をとやかく言う人たちのことは大嫌いだった。
だけどその場には誰も否定しようとする人がいなかったし、女の子も一緒になってやっていたから、私の方が甘っちょろくて、彼らの言葉が正しいのかもと、だんだんと心が折れていった。
そして私も、きっと彼らから笑われているのだろうなとびくびく怯えるようになった。

心を蝕む見た目の呪い。最終的に好みを考えることも難しくなっていた

最初に起きた心の変化は、

  1. 自分の身体のことは、特に好きでも嫌いでもなかったのに、どちらかというと嫌いになった。
  2. 次に、私も話のネタにされているんだろうなと怖くなり、足の出るミニスカートや、ボディラインの見えるニットが着られなくなった。
  3. そして、大きめのパーカーとか、長いスカートで自分の身体を隠すようにして生きるようになった。その頃にはすでに、痩せて骨格の細い身体でないと、価値がないような気がしていた。
  4. やがて、腕もお尻も足も、自分のひとつひとつのパーツの形がいちいち嫌いになり、自分の身体で生きることがもはやストレスだった。
  5. 努力しようとして、パーソナルカラーや骨格診断には詳しくなった。しかし、「あの色はこの肌色に合わない」、「あの服はこの骨格に合わない」といったマイナスの情報だけが蓄積されていき、身につけるものを選ぶのが苦痛になった。

大学が終わるころには、自分がどんな服を着たいかとか、どんな見た目が好みだとか、そんな感情さえも、自分には過ぎた贅沢品のように感じていた。「とりあえず見られるような恰好を」。それだけ心掛けていた。

これだけ呪いを背負っていたけれど、大学院に入って環境が変わってから呪いがぼろぼろと解けつつある。
大きな変化として、見た目を悪く言う人が一気にいなくなった。いや、何か思っていたとしても心に秘めておく人が多数派になったというだけのことかもしれないが。

大学院であろうと、ルッキズムは確実にほんのりと存在しているのだが、聞きたくない言葉を耳に入れずに済むという、たったそれだけの変化で、自分の身体への嫌悪感が薄れてきた。

ぶっ壊され見失った自己愛をゆっくりと取り戻すリハビリ期間

呪いはしつこい油汚れみたいなもので、今はまだリハビリ期間だけど、学部の頃の自分の悩みを客観視できるようになってきた。
やっぱり、すごく傷ついていたのだと思う。足がもっと細ければなとか、首の感じはまあまあ好きかもしれないとか、自分なりに私の身体を理解していたし、愛していた!

そういうマイペースな自己愛を、均一的な美の基準によってぶっ壊されてしまったから、自分を見失ってしまっていた。
誰に言われなくとも、自分の身体のことは自分で分かっている。自分がどうなりたいかも、他人に決める権利はなく、私だけがコントロールできる。

あの頃の自分はそんなことも分からなかった。その弱さにイライラすることもあるが、「いやいや、あの環境じゃ自分を保つのも大変だったよね、お疲れ様」と、優しくなぐさめてあげたいとも思う。

だんだんと、デパートに行ったりファッション誌を見たり、インスタをチェックしたり、自分がキラキラ可愛い物を追うことへの罪悪感がなくなってきている。昔の自分が見たら、とても安心することだろう。
でも実はまだ、自身のなさが自虐として自分の口から飛び出ることがある。

「私は○○さんみたいに細くないからこんな服は無理」と、かつて先輩たちが言っていたようにぼやくと、今の友人は真顔になって、まったく笑ってくれない。
そういう時、私は恥ずかしくて泣きそうになる。ルッキズムにまったく染まっていない友人がうらめしくて仕方ないのだ。でも、自分の身体を誰も笑わない社会のほうが何倍もいい。私は友だちの眩しさに悔し泣きしながらも、最近はいつも笑っている。