女の生きづらさをあまり感じない私のフェミニズムとの向き合い方

「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んだ。この本の存在は以前から知っていたが、ムーブメントが一部過熱化しているのを側から見ていてなかなか読むまでには至らなかった。
韓国女性の話であるらしく、#MeToo運動の場で書名をよく見かけた。この本に触れた人の様々な感情の揺れ動きやメッセージを見かける度に、自分が安易に触れていいものなのか戸惑いが募っていった。何故なら私は女であることの生きづらさをあまり感じたことがない女だからだ。
いざ手に取り読み終わった時のなんとも言えぬ哀しさは言い表せない。一人の女性が生きて感じた理不尽、悔しさ、やるせなさがぎゅっと詰まったような本だった。
私は韓国に明るくないため解説を読んでなんとか事情を把握したのだが、世界各国でこの本が翻訳され読まれていることを考えると、自分が生まれ育った国の社会の在り方を改めて外へ伝えることの大切さが分かるだろう。パスポートがあればどこへでも行ける時代になっても、故郷以外の国の文化を正確に理解するのは難しい。
内側から、今まで見過ごされてきたことを発信すれば興味を持つ人の元へ届くのだ。声を上げることはやはり、大切だと思った。
今まで女性が社会に問題提議をしているのを距離を保ちつつ見ていたのは私が感情に弱い人間だからだ。女であることで理不尽な思いをした人々は、悲しみ、怒り、それ故に情熱的で、そんな活発な動きを見ると私はなんだかひどく落ち込んでしまう。
社会のそんな側面に気づいていなかったことや、生きることに疲れてしまった人々がいることが無性に悲しくなってしまうのだ。人はもっと自由であるべきなのに、とぼんやり思ってしまう。そのために私が動けるかと聞かれれば実体験があるわけでもない、真の意味で共感できていないのにムーブメントに乗るのは失礼だと、何もできなかった。
女の敵は女だとはよく言ったもので、「女は何もわかっちゃいない」という男よりも、「私も女だけどそんな思いはしなかったです。女という主語で語らないで」と言う女の方が厄介だという論調をよく見かける。
人の感情に共感はできても誰も真の意味で共有はできないのだから、そんなことを言う権利は本当はないのに、誰かが声をあげると真っ向からそのものを否定してくる人は残念ながらいるものだ。私は人生において女を主語に何かを語りたくなったことはなく、#MeToo運動を見ても自分に思い当たる節がなかったため、せめて声をあげている女性の邪魔はしないでおこうと一人で本を読んだり、女性の立場について各国の違いを学んだりしていた。
それは微かな意思表示だった。私は理解したいという姿勢を取りつづけることで、問題と向き合うことしかできない。ずる賢いのだろうか、まだ自分でもどう動けばいいのかの答えは出ていない。
社会は目まぐるしく変わっていくが、今まで聞こえてこなかった声が大きくなればなるほど、「今までもそうやってきたのに」「昔はもっと大変だった」と言う人がいるのは知っている。これから先、声をあげるすべての人々にとって社会が良い方向に変わるなら、それは素敵なことだと思う。
私は未だに女性と社会の問題を自分の問題にまで落とし込めていないが、これからも理解し続けるための努力は怠らないでいきたい。何々であれ、と言われることが段々と減っていき、画一された人間でなくとも良いと言われる時代、自分が一人の人間としてどう生きていくかがさらに問われているような気がする。それが時折息苦しくなってしまったり、重たく感じることもある。だけれども、一度きりの人生で何かを伝えよう、変えようとしている人々は美しく、エネルギッシュで眩しく映る。その眩しさのかけらを見逃したくないと、ただ私は私のために、社会の動きを追い続け、自分のものにしていきたいと思う。
かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
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