男と女の「ふつう」が同じではないことを知ったのは、小学校低学年の頃だ。

この大人は殴ってはいけない理由を、いつか子どもを産むからだという

幼い私は授業中、突然男子におなかを殴られたことがあった。理不尽にもそこに理由なんてなくて、無性に腹が立った私はヘラヘラ笑うあいつに謝らせたくて、でもちょっと怖いから、近くにいた隣のクラスの女の先生に告げ口をしに行った。

先生はすぐに来て彼を叱ってくれたけど、私はあの時の言葉を今でも忘れられない。彼女は 「おなかを殴っちゃいけません」と言ったあと、彼にこう続けたのだ。
「女の子のおなかはいつか赤ちゃんを産む大切なところなんだから」

衝撃だった。この大人はヒトを殴ってはいけない理由を、暴力はいけないとかじゃなく、私が女だからで、いつか子どもを産むからだという。
女は子どもを産むためだけの生き物なのか。身近な大人からの言葉は幼心にも強烈で、あの時の違和感は、20年以上経った今でも私の中で燻り続けて消化しきれないでいる。

自分の知らない様々な「ふつう」があると知ったのは、たぶん大学生になって見始めた海外ドラマがきっかけで、価値観の転機になったのは、単身訪れた1ヶ月のフィリピンへの語学留学だったと思う。

フィリピンで、驚くほどにゲイの彼らがそうあることが自然だった

私が行った語学学校は半分以上がゲイの男性で、男とか女とか自分が知っている「ふつう」以外の「ふつう」を持った人に会うのは私はその時が初めてだった。

フィリピンという国においてゲイというセクシャリティはオープンで、驚くほどに彼らがそうあることが自然であった。そして幸運にも私が出会った彼らはみんな優しくて、チャーミングで、素敵な人ばかり。くしゅんと可愛らしいくしゃみをして「鏡を貸して」と言って髪を直す、そんな彼を見てキュンとして、ああ、好きだなあとしみじみ愛しく思うのだ。

少なくとも「ふつう」はヒトの数だけあって、それは当たり前のことなんだよと教えてくれて、私がそれを受け入れるには十分だった。

私が気づいたのが単に性やジェンダーがきっかけだったというだけで、私たちを取り巻く「ふつう」にはたくさんの「ふつう」がある。性、ジェンダー、人種に伝統や社会。一度気づきだしたらキリがない。
小さな違和感は当たり前のように至る所にあって、でも私にとってはそれが「ふつう」だった。 自分の知らない「ふつう」がこの世界にはたくさんあると知って、ようやく私はスタートラインに立てたのだ。

この世界は決して公平じゃないと理解するという、残酷なこと

ふと、この世界には「ふつう」という言葉の中にどれだけの不平等が隠れているのだろうか、と疑問に思うことがある。「ふつう」という言葉にどれだけの人が囚われているのだろうか。
この世界には様々な「ふつう」があると気づくということは、この世界は決して公平なんかじゃないということを理解するということだ。こんなに残酷なことって、きっとない。

見えるものが増えたこの世界から、時たま無性に逃げ出したくなることがある。
知ったことに後悔はない。でもふとなんで知ってしまったんだろう、と思ってしまう私にひどく失望して泣きたくなる。何気ない瞬間に自分が「ふつう」に縛られていることに気が付いてしまったとき、無性に絶望に打ちひしがれてしまう。
だって私たちが対等になろうとあがこうとするにはまず、私たちは決して平等ではないことを認め、 受け入れるところから始めないといけない。そうしないと、スタートラインにさえ立てない。

傷ついて、怒って、泣いて、疲れ果ててしまって、思うのだ。なんで私はこんなことをしてい るんだろう。でも、見ないふりをするよりずっといい。どんなにボロボロになっても今の自分のほうが好きだから、私は立ち向かい続けるのだ。私と私の大切な人たちを守るために。

そうやって今日も私は、この世界の「ふつう」と戦っている。