政治と宗教と野球の話はタブー、大人になって知ったくだらない風習の一つだ。物事に対して確固たるこだわりがある人と、そうでない人の差が激しければ激しいほど、物事に関する会話というのは難しくなる。

好きと一口に言っても野球をテレビで見る人と、遠くの球場まで追いかけて現地で見る人、歴代選手のことを追っている人では同じトーンでは話せないだろう。どちらも好きなことに変わりはないが、野球という主語の中に細分化された分野があり、それが同じ熱量で語ることを難しくしているだけなのだ。

だから私は「神様を信じてるんですか?」と言われた時に「はて、どうしたものかな」と内心頭を抱えたものだった。

「産まなきゃ良かった」と言われ続けた 神様がいるなら問いたい

私が生まれ育ったのは神棚も仏壇もなく、初詣も行かず、お盆におはぎや精霊馬も作らない、全く宗教とは関わりない家庭だった。だけれども、私は比較的幼い頃から神様を信じていたように思う。
神様が見ていてくれるからきっといいことがあると、そう信じなければ生きてゆかれない環境だったのだ。家へ帰れば母親が泣き喚き、物を投げ、怒鳴り、外へ出れば人が怖い。
「何をしてもつまらなさそう」「あんたなんか産まなきゃ良かった」そう言われ続けていたし、私自身なんで生まれてきたのかは分からなかった。

望んだわけでもなく、どうやら望まれたわけでもない、それなのに自分はなぜこの世を生きていかなければならないのか。歩みたいと思って歩き出した人生ではないのに、なぜ死ねないのか。毎晩眠る時に、寝ている間に全員死んでいればいいと思っていた。

親も自分も、苦しまずに死にたいと願っていた。もし神様がいるのなら、私のような人間をなぜ作ったのだろうか。意味があるのだろうか、生かされている意味があるのか、ずっと知りたかった。

普通の家庭を作りたかった母との家族旅行 救いは夜中の聖書だけ

小学生の頃、普通の家庭を作りたかった母はよく家族旅行に私たち一家を連れて行った。息が詰まるような家族4人での旅行の中で私の唯一の楽しみは泊まるホテルのベッドサイドにある聖書だった。
英語圏でも日本語圏でも多くのホテルには聖書が置いてある。グアム、長崎、北海道、どこへ行っても夜中、皆が寝静まった後に小さなオレンジ色の灯りをつけて聖書を読む時間だけが救いだった。

それが神様を信じているのか、という問いに対する答えになるならば、私は信じているのかもしれない。でも内容はなんでも良かった。ただ、昔の人が信じたものを読んで、夢や未来が見られるなら、それだけで息が楽にできたのだ。神様にいてほしいと思っていたし、見ているならば助けてほしいと思っていた。

理解できなくても尊重したい でもやっぱりタブーなのかなぁ・・・

宗教を信じるか、神様を信じるか、その問い一つでは物事は語れない。
生きることが昔よりも楽になった今、私は毎年病気平癒の御守りをいただきに行くし、新年は神社に詣でる。旅行で訪れた土地の神様にはお邪魔しますとご挨拶に行くし、一年の終わりにはありがとうございましたと伝えるが、宗教に明るいかと言われるとそうでもない。ただ自分が何かを信じ、何かに見守られながら生きていると思うことで生きやすくなるからそうしているだけだ。

日本は宗教の自由が認められているし、国の宗教というものがない分諸外国よりそれらに疎くなるのだろう。宗教が身近な人とそうでない人の温度差は激しいし、住む地域や家庭によっても様々だ。誰が何を信仰していようと、それを理解できずとも、受け入れることはしていきたい。

でもやっぱり少し複雑な話になってくるので、政治と宗教と野球の話はタブーにしておいた方が楽なのかもしれない。