忘れられない恋をしました。

23歳の時です。企画営業の仕事で、私は2年目の若手社員でした。
彼は他の課から異動してきた、3個年上の先輩でした。歓迎会の日、――梅雨の到来を思わせる土砂降りの日でした――帰路につこうとした私の横に、気が付くと彼は立っていました。どこにでもありそうなビニール傘をさして、片側を空けて、無言で私を見つめました。大きい一重の目で、どこか色気の漂う人だと思いました。

あまりのエゴイスティックさに、心奪われてしまった夜

駅までの10分ほどの間、私たちは殆ど何も話しませんでした。私たちは雨のせいで、二人だけの空間に閉じ込められてしまったみたいでした。
その時、私には数年間付き合っていた恋人がいました。私は恋人との関係に満足していました。

「彼氏いるんだってね」
ある夜の飲み会で、彼に聞かれました。
「僕は結構傷ついたよ」
急に、このカシスオレンジはこんなに甘ったるい味だったのか、全然おいしくない、と感じました。生ぬるいグラスの表面にじっとりと垂れる水滴を親指で弄びました。
「いないんですか、彼女」
ごまかすように聞くと、
「いるよ」
とビールを飲みながら言う彼に、なんて利己的な人なんだろうと、途方もなく惹かれてしまいました。惹かれるなんて理にかなっていないし、ばかばかしいと思うのに。

この夜、私は彼と寝ました。帰宅後の彼の誘いに、携帯片手に深夜タクシーに飛び乗りました。深夜のタクシーは初めてでしたが、飛び去る色とりどりのネオンがなんて美しいんだろうと感動していました。東京中がきらめいていました。
彼と触れ合う時、私は全身が喜んでいるのを感じました。それはいやらしささえなく、その時の私たちにとって必要不可欠なものでした。肌の柔らかい匂いに、汗が滴り落ちた光に、視

線が合った際に散る痛みに似た火花に、私は涙が出そうになりました。彼は私の二の腕を特に愛で、強く噛みつきました。私は彼の首元を何度も舌で味わいました。私たちは夜明けまで数時間、お互いを取り込むことに夢中でした。それはまるで捕食と似ていたかもしれません。

熱烈に恋をしました。どこか狂っているのではないかと思うほど

私は彼に熱烈に恋をしました。昼は彼の声が聞こえてくる度パソコンを打つ手が止まり、夜は彼からメッセージが来る夢を見て、期待に何度も目を覚ましました。会う人みんなに「綺麗になった」と言われました。
明らかに輝いた私に、恋人は何一つ聞こうとせず、それでも一緒にいようとしました。他の男に夢中な私といてそれでも幸せだと笑う恋人も、罪悪感はあるのに彼に会えば何もかもどうでもよくなってしまう私も、どこか狂っているのではないかと思うようになりました。そのうち私は、恋人と触れ合うことができなくなってしまいました。

「好きだよ」
ある夜、私のベッドで彼は言いました。私が作った醤油味の和風パスタを食べて、その日2回目に求めあっていた時でした。
ほの暗い、ワンルームの狭い部屋で、月の光が彼の裸体を照らしているのに気が付きました。――なんて美しい生き物なんだろう――私は賞賛の気持ちで彼の汗で濡れた髪の毛を指に絡めました。彼が愛用しているイランイランのシャンプーの香りが、熱気に溶けていきます。
「好きなの?」
「好き」
そんなことを言いながら、私は唐突に終わりが忍び寄っていることを悟りました。その夜、私たちは世界でいちばん幸福でした。

優しい恋人とも、彼とも会わなくなりました。私たちは近づきすぎてしまった

私は優しい恋人に別れを告げました。
死んでしまうのではないかと思うくらいに泣きながら、別れたくないと言う恋人を見ると、恋の恐ろしさに私は恐怖しました。

彼と私はあの夜から、次第に会う頻度が減っていきました。
おそらく私たちは近づきすぎてしまったのだと、今では思います。
一緒にいることはできませんでした。ただそれだけの、よくある話です。
でも、あの時あの瞬間の2人が共有してしまった感覚だとか、熱気、匂い、そういったものは私たちの体に染みついて消えないのです。この先もずっと。

今年もまた、夏がやって来ます。