「20代後半かあ。他の芝生が青く見えちゃう時期だよね」

私のカウンターの横に座った女性が言った。20代後半の私は、どきり、とした。
大学の同級生たちの相次ぐ退社、転職報告、キャリアに関する悩み相談。
まさに、その通りである。

居心地の良い店で、ある常連さんと意気投合「私だけじゃないんだ」

私の自宅から徒歩数分。人柄と距離感の良い同世代の店長さんが営むこの店は小さいながら年代問わず毎日別の常連さんが通う。来る頻度が決して多くない私でも店長さんはしっかり覚えてくれている。この店が慕われる理由の一つだと思っている。そして、ふわっとついつい打ち明けてしまう居心地の良さを持っている。

初めてお会いした常連さん。心を見透かされたように驚く私に、やわらかい物腰で話してくれた。

「大学を卒業してからIT関係で働いていたんだけど、自分は美大を卒業していないけどアートに興味があって、一度、アートに近い環境で働きたいと思って、仕事を辞めたの。20代の後半に」
「それからどうしたんですか」
「学校に行ってアートの勉強をして、お金は関係なかったから非正規で働いて、作家さんとか今までの自分が関われなかったような世界が見れてとても楽しかった。けどちょっと違うなって思って、またIT業界で働いているけど、ITもITで面白くて楽しい。でも、あの時仕事を辞めて後悔はしていない」

私はひどく動揺した。なぜなら今の私の預金通帳は通信美大に通うための学費だったからである。
「実は、私、来年2021年に通信の美大で学ぼうと思っていましてーー」
今まで否定されるのが怖くて話せなかった自分の計画を彼女に話した。私だけじゃなかったんだという安心感と一緒に。

一度はアートを捨てた 夜空を見上げ「貯金して、美大に行こう」

大学4年生の冬。大学を卒業する前に、とあるアートプログラムのボランティアに参加した。周りは年下の美大生ばかり。一般大学出身のデザインも動画も作れない私は、ビラを配ったり、インタビューの文字起こしをしたり、限られたできることをやっていた。その中で社会人をやりながら通信美大に通う彼女に出会った。当時の彼女もまた20代後半だった。

「高校生の時にアートかスポーツか悩んで、結局スポーツを選んでしまったの。でもやっぱりアートが好きだから勉強しようって思って」
4月から内定先に就職する予定の当時の私は衝撃を受けた。社会人になっても選べる選択肢があることに。私も高校時代に勉強かアートか悩んで、アートを捨てた一人だったからである。

社会人1年目。誰だって初めての社会人に戸惑う時期だと思う。私もそうだった。
誰もいない夜道を一人ぽつんと悩みながら、とぼとぼ歩きながら、ふと夜空を見上げた。満天の星空が美しくて、なぜか大学4年生の冬に出会った彼女のことを思い出した。
「そうだ。お金を貯めて、美大に行こう」
それから、毎月25日。社会人の私は真っ先に給与を口座から引き落とし、学費貯蓄用の口座に移すのが習慣になった。

「0か100」だけではない。緩やかな選択肢を選んだっていいのだ

2021年、1月。そろそろ20代後半になろうとする後輩から相談があった。

「好きじゃないけど稼げる仕事と、好きだけど稼げない仕事。どちらを選ぶか悩んでいます」
「好きで稼げる仕事を探すといいよ。選択肢は一つではないから」

きっと彼女にとって、その好きな気持ちも生活するための給与も、どちらも大切なものなのだ。
今だから思うこともあるけれど、選択肢は極端な「0か100」だけではないのだ。何かを捨てたり諦めたり、そんな痛みを伴う選択肢ばかりではなく、自分の大切なものを抱き締めて、自分にとっての緩やかな選択肢を選んだっていいのだ。

2021年、4月。ようやく私は入学予定である。
もしかしたら、ここで出会った誰かの通過点が私の分岐点になる。そんな期待を胸にしながら。