たぶん自分は一生結婚などすることはないのだろうな、と思っていた。実際、昨年末に結婚2周年を迎えたというのに、いまだにわたしの家庭の事情を知る親しい友人たちからは「まさかあなたが結婚するとは思わなかった」とよく言われる。

父の戸籍から出たかった。その一心で、わたしは結婚を決めた

大学院修了と同時に今の夫と婚約し、その半年後に26歳で婚姻届を区役所に提出した。現代では、それなりに早い結婚であったと思う。結婚願望など抱いたことすらなかったくせにこんなに早く誰かの配偶者となることを決めたのには、もちろん理由がある。父の戸籍から出たかったからだ。その一心で、わたしは彼との結婚を決めた。

父親は、暴力を振るうひとだった。それがいつから始まったのか、もう定かではない。いつ、どこで、何がきっかけで父に火がつくのか、まったくわからなかった。母は泣きこそすれ、身を挺してまで守ってはくれなかった。本来ならば安らぎと憩いの場であるはずの家庭は、どこに地雷が埋まっているかわからない、さながら戦場のようだったと今振り返っても思う。わたしは幼少期から、生命の危機に脅かされながら育った。これは誇張でもなんでもない、まごうことなき事実である。

父はわたしを「叱る」理由を見つけるのがものすごくうまい。外で何か気に食わないことがあったときや、なんとなくわたしに苛ついたときなどは、決まってこう命ずるのだ。「お前、成績表持ってこい!」と。そういうときの父は、たとえ結果が良くても些末な欠点をあぶり出して激しく言葉でわたしを罵った。悪いときは、こぶしや物が飛んでくる。その度わたしは、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を床に擦り付けて父に謝罪する。ごめんなさい次はもっといい成績を取ります、だから許してください。それは父の気が収まるまで続く。母はやっぱり、泣くだけで庇ってはくれない。その気の遠くなるほど長い時間と、胃の底が冷える感覚は、たぶん一生忘れることはできないだろう。

まともな家庭で育っていないのに、それを築けるはずがないと思った

両親から受けてきた仕打ちが「虐待」であったと知ったのは、成人してからのことだ。自分の家庭がいわゆる「機能不全家庭」であったことも、彼らが「毒親」であったことも。だからこそ、わたしは思っていた。まともな家庭で育っていない自分が、まともな家庭を築けるはずがないのだ、と。

それなのに、夫はわたしに結婚を望んだ。付き合って3日目、まだ大学生だったわたしに、さらりと「君が最後の人だよ」と、4歳年上ですでに結婚適齢期と言われる年齢に突入していた彼は告げた。その甘ったるい少女漫画的ともいえる台詞に、わたしはあからさまに鼻白んだ。「結婚の話はもうやめて」と泣き、一時は禁句にしていたほどだ。

だが、彼と過ごすうち、「結婚してしまえば父とは家族でなくなるのでは」と考えるようになった。父と同じ苗字を名乗らなくて済むようになるのならば、父の所有物でなくなるのならば、そう悪くない話なのではないか。合法的に父から逃れられるのであれば、結婚はいっそ最適な手段なのではないか。そんな不純な動機で、彼のプロポーズを受け入れたのだけれど。

夫が根気強く教えてくれた。家庭は、安らぎと憩いと癒しの場だ

夫と過ごす年月を経て、少しずつわたしの気持ちは変わっていった。長年受け続けた虐待で擦り切れたわたしを、フラッシュバックで泣き叫ぶわたしを、カウンセラーさんいわく「生命の危機が脅かされる場所から脱出できた安心感で彼に対して甘えが出てきた」ために、ほんの些細なきっかけで烈火の如く怒り狂うわたしを、辛抱強く抱きしめ続けてくれたのは、他でもない夫だった。わたしのあまりの激しさにときに疲弊しながらも、夫は絶対にわたしを投げ出さなかった。

この場所でわたしは、「結婚は案外良いものだよ」などと安易に言うつもりはない。それでも、ただひとつたしかなことがある。家庭は、けっして戦場なんかじゃない。安らぎと憩いと癒しの場だ。わたしの育った家庭が異常だからといって、わたしがまともな家庭を築けないとは限らない。そう根気強く教えてくれたのは、間違いなく夫である。

これから先のことはわからない。子供はたぶん持たないだろうけど、夫とずっと結婚しているかもしれないし、もしかしたら別れるかもしれない。保証はない。でも、それでも、不純な動機で決めた結婚だったけれど、夫と家族になれたことだけは、心の底から幸福に思う。