うちは現在、眼科でアルバイトをしている。
人間、健康で文化的な最低限度の生活をするにも、自分を維持するにも、なんなら、息をしているだけでも、お金がかかる。生きていくにはお金が必要で、だからうちは働いている。

日付印のとっくに汚された数字と綺麗な数字を見ながら生き方を考える

先日、バイト中に日付印をぼけーっと眺めていて気がついたことがある。
あまり使う機会のない日付印には、まだ新品部分が残っている。うちは、この新品部分を見るのが好きだ。「元はこんなに綺麗だったのか!」と、驚きと懐かしさを覚えて、なんとも言えない気持ちになる。
だから、この新品部分は何がなんでも汚したくない。なんなら綺麗な状態に対して高貴ささえ感じる。(小学生の時、短くなった消しゴムを包紙からずらしたとき、「あれ、こんなに白かったっけ?!」という驚きと、自分が勉強してきた蓄積を感じたあの感覚に近い。消しゴムは小さくなるけど、自分は大きくなるというあべこべさも感慨深い。閑話休題)
とっくに汚されている数字と、綺麗なままの数字が並んでいる。皮肉なものだ。働いている奴らを横目に、全く働かないボンボンたち。そんなボンボンたちから「インクまみれになっちゃって。馬車馬の如く働かされて大変ね」と嫌味が聞こえてきそうである。
正直、うちは一生遊んで暮らしたい。天職でも無い限り、働かなくていいなら働きたくない。だから、日付印の新品部分を見て「働かないで、尚且つ汚れを知らない綺麗な状態を保てるなんて、羨ましい」と思っていた。けれど、それではダメだったのだ。

インタビュー記事で感じた疑問の答えは、まさに日付印のことだった

半年ほど前、宮本亞門さんのインタビュー記事を読んだ。
「生きるって、自分と人とのことを考えていくことなんじゃないかと、思っています。死ぬ瞬間まで永遠に人間の矛盾と向き合っていかなきゃならない。気のあう人だけでいられれば楽しいかもしれないけれど、それは現実逃避というか、生きるってことにはならないような気がする。」

なんで生きるってことにならないんだ。気の合う人たちだけでいられた方が争いも起こらないし、平和じゃないかとずっと考えていたけど、ハッとした。まさに日付印のことだったのである。

差別は消えないし、自殺もなくならない。なんでこんな嫌な奴が生きているのだろうと思わされることも多々ある。それこそまさに、気の合う人だけでいられればどれだけ楽だろうか。

しかし、よく考えると、一生出番がないというのは如何なものか。
「毎日グルグルと回され、馬車馬の如く働かされ汚れや傷がつく一方でも、自分がいた証を着実に残せる」ことと、「汚れを知らずいつまでもきれいな存在でいられるけど、一生日の目を見ない」こと。辛い思いをして生きるのもしんどいが、生まれてきた意味を見出せずに死ぬ方がよっぽど不幸なことだった。姉が、「アンパンマンのマーチは名曲だぞ!」と熱弁していたのが脳裏をよぎる。
これは、宮本亞門さんのインタビューを読んだだけでは気がつけなかったことで、まさか、自分が日付印から「働くとは何か。生きるとは何か」を教わる日がくるとは夢にも思わなかった。

我々は、何のために生まれて、何をして喜びを感じるのか

うちは、4月からようやく社会人になる。内定先との面接で、「働いていて喜びを感じる瞬間はいつですか?」と先輩社員に尋ねたら、「クライアントに喜んでもらえる時です」と答えてくれた。

我々は、何のために生まれて、何をして喜ぶのか。改めて考えると、誰かに「ありがとう」と言われた時こそ喜びを感じるのではないだろうか。そして、喜びを感じることこそが、我々の生まれてきた意味ではないだろうか。この喜びは、売り買いできない大切な感情だ。

生きるためにはお金が必要だけど、お金のために生きているわけじゃない。
働かないとお金はもらえないけど、お金のために働くべきではなかった。

喜びのために生きているのであり、そのために働くのだ。