プライベートでの家族からの「見られ方」と、社会での周りからの「見られ方」にギャップがあることが悩みだった。
中学生~大学生にかけて、どっちが本性なんだろう?と自分の二面的なキャラに戸惑った。

真面目でしっかり者だと思われる私と、姉を頼り真似ばかりしている私

学校では、友達や先生から真面目でしっかり者だと言われることが多かった。成績は常に平均以上をキープし、オール5やオールAを取ることもあったからだと思う。絶対に周りには見せたくないのに、なぜか毎回「成績どうだった?どうせ良かったでしょ?」とクラスメイトたちがあゆみを覗き込んでくる終業式の日がキライだった。
中学では2年間学級委員を務めるくらい、たしかに模範的な生徒だったな。
高校の部活では副長、大学のサークルではサブチーフと、周りがリーダー職に推薦してくれることもあった。向いていたかどうかは別として。特に宿題とか勉強面のことは、なぜか私に質問・相談してくるクラスメイトも多かった。

でも、家の中では違った。しっかり者の長女タイプは姉で、私はその反対。高校・大学の進路も自分で決めて人生を切り開いてきた姉と、何がしたいか分からなくて人のアドバイスを頼りにして、姉のマネばかりしてきた私。当然頼れるのは姉の方。私の意見を聞かれた記憶があまりない。
勉強は努力すればできるようになっても、地頭はもともと良くなかったみたい。例えば、親戚の集まりの場では、母を手伝ってお茶出ししなきゃいけない暗黙のルールとか分からなくて、言われるまで座ってお菓子を食べてた。でも姉は周りの状況にアンテナを張れる子だった。この気遣いができるかできないかの差が、良く言えばおおらかでマイペース/ 悪く言えばボケーっとしてどこか抜けている、常識に欠けた何も考えていない子、というレッテルを家族に貼られる要素として蓄積された。

家での自分が嫌で、外では「しっかりしなきゃ」と肩に力が入っていた

自分ではあまり自覚がないのだけれど、私は謎発言をしたりヘマをしたりすることが多いらしく、その度に「それが○○らしさだから良いんだけどね~」と母にネタとして取り上げられ、みんなに笑われる。それが私らしさと言われても全然嬉しくはなくて、むしろバカにされている感覚の方が常に強くて、特に母からの評価は私のコンプレックスだった。

しっかり者の姉がたまにヘマしても、それはご愛嬌。ただし私がたまにでかしたとしても、それはまぐれ。大学生になるこの歳まで、私の見られ方が変わることはなかった。
「教えてなくてもお姉ちゃんは分かるのに、何であんたはこんなことも知らないの?」
「ま、○○だからしょうがないわねえ」
そういう言葉で片付けられる度に、悔しくて涙が出た。成長や変化に目を向けようとしない母。私はいつまでもマヌケキャラ。でも、言い返したり自分の気持ちを説明したりするのが苦手だった私は、ただただ涙を流すことしかできなくて、それもまた "泣き虫 "認定される結果を招くことに。

だからかもしれない。家でのうっかり者の自分が嫌で、外のコミュニティでは「しっかりしなきゃ」と肩に力が入っていた。学校では、気を許す友達以外の前では泣くこともない。悩みをオープンにすることも少ない。今振り返れば、学校というコミュニティでのしっかり者の私は「見せていた」キャラだったのかもしれない。完全ONモードのスイッチガールだったのだ。

「なりたい自分」に「見せている」自分も、私自身だと認めてあげよう

本当は自分に自信なんてないし自己肯定感も低いけれど、それを気づかれたくなかった。部活で副長になってから、「頼れるリーダーになるためにはまず話し方からだよなぁ」と思って、自信があるように見える話し方も研究した。姿勢良くどっしり構え、声を張ってハキハキと話すこと。
そのお陰か、猫かぶっている私と会話をした初対面の大人からは「落ち着いてますね~、大人っぽいですね」と言われることが多い。本当はふざけてくだらないことして笑うの大好きなんだけどね。

OFFモードの脱力した状態が本当の自分ならば、残念ながら私の本性は家族が一番良く分かっているということになるだろう。周りからの評価は、自分を知るうえで有効かつ耳を傾けなければならないことであるのは事実だ。
でも、プライベートな私と社会的な私、どちらも自分と呼んだっていいんじゃないかな?
だって、外ではきっと誰だって理性を保とうとONモードになるのは当たり前。社会ではちゃんとできる自分がいることも事実だもん。
「なりたい自分」に「見せている」自分だって、私自身だと認めてあげよう。二重人格に悩んでいたけど、どっちが本当の自分かなんてもう気にせず、開き直っちゃえ。
そして、マイナスな評価を変えていくんだ。成長した自立した姿を見せて、見られ方を変えていきたい。気の利く頼れる存在へと、自分をアップデートして上書き保存していくんだ。