雨の中も裸足で歩き回り、活き活きと踊る少女に憧れた。でも私は、傘をさしてしまう

私は昔から、雨が好きだった。雨は私を、特別な気分にさせた。私が芸術に触れていく中でとても好きになった、忘れられない言葉がある。
「雨の中、傘をささずに踊る人間がいてもいい。それが真の自由というものだ」
ウェブで出合ったもので、ヨハン・ゲーテの言葉のようだ。私はこの言葉から、人々が傘をさして足早に街を行き交う中、傘もささずに雨に濡れながら踊っている少女を連想する。雨が降ったら傘をさす、という概念は一切かなぐり捨てて、雨の中でひたすら踊り続ける。彼女は、人の目なんて一切気にならないのだろう。雨が好きだから、踊りたいと思ったから、雨の中で踊るのだ。
この言葉を知ったとき、私は衝撃を受けた。そして、およそ200年も前に確かに生きていた偉大な詩人に勇気づけられた気がして、私はそれから雨が降ればこの言葉を思い出した。
私はよく、変わっているよねと周りから言われた。なんだか、あなたとは話が噛み合わない、とも。人よりも時間がゆっくりしているらしいのだ。確かに、人と話をしていても自分の中で噛み砕かないと返答ができない。複数人と話していればもう、すぐに会話についていけなくなる。
おまけに、大抵のことは一般的な考えとずれる。それ普通じゃないよ、とか、それ変だよ、とか、だいたい首を傾げられることが多い。私はそう言われれば、おぉそうなのか、とびっくりし、なるべく普通にいられるように、気をつける。でも、普通な人は普通な人を好み、それが変であることが分かる人を信用する。そうやってなんとなく、なんとなくではあるけれども、人と私と一体感が生まれない感覚というものを、今までずっと感じながら生きてきたように思う。
社会人になると、なるべく普通でいられるようにしたい気持ちは、なにかに懇願するように一層強くなった。お願いだから普通でありたいと思った。普通に頑張れて、普通に同期と仲良くやっていけて、普通に先輩と信頼関係が築けて、普通にクライアントさんとお話ができて関係が築けて、普通に後輩に頼られて、普通に普通に普通に。
でも、私にはとうとう最後まで普通が分からなかった。普通がちゃんとできなかった。普通にいられるように気をつけても、ダメだった。
私がそんなふうに途方に暮れるたび、思い出すのはいつも少女のことだった。
雨の中、ひたひたと裸足で街中を歩き回り、踊る少女のこと。身体の内側から溢れ出るパワーを踊りに。気持ちが動くままに、自由に。
彼女は本当の自由を知っていた。私もそんなふうになれたらと、何度思い描いたことかしれない。概念にとらわれず、自分の好きなものを好きといい、普通じゃない自分を愛することができたら、と。その少女が思い出されるたびに、私は感嘆した。まだ生きていこうと思った。
そして、でも、と思う。でも、私は雨の中で傘をささずに踊るようなことは決してしないだろう、とも思うのだ。雨が降ったら傘をさし、人々と同じように足早に街を歩くだろう。雨で服が、髪の毛が濡れてしまわないように気をつけて、人々がさしている傘の色さえも気にしながら歩いて行くだろう。人々に混じって社会でなんとか生きていくとは、でもそういうことなのだと私は思う。雨の中で活き活きと、強くしなやかに踊る少女に永遠に憧れながら。
雨の日には、いつも思い出す。ヨハン・ゲーテの言葉のこと。雨の中傘をささずに踊る少女と、彼女が知っている本当の自由のこと。
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