「えー意外」
「え?りりかちゃんって○○じゃないの?」
「えーそんな音楽聞くんだ」
「意外」
意外意外意外意外意外意外意外意外意外意外意外意外意外。意外のオンパレードな毎日。意外のゲシュタルト崩壊。人はみな、相手の見た目や雰囲気を勝手に自身の世界観の中に閉じ込め、勝手に創造してしまっているのではないだろうか。
この人はこうだろう、この人はこうに決まっている。なんの根拠もない決めつけで溢れかえっている他者間。幾度となく、私はこの軋轢に心を痛めてきた。

自分が思う私と、他人に映る私。なぜこんなに差が生まれるのだろうか

自分自身ではよくわからないが、わたくしりりかは「とても大人しそう」な見た目雰囲気をしているらしい。私が大きな声を出したり、友達と楽しくおしゃべりをしているだけで「りりかちゃんもあんなにはしゃぐんだね!意外」「もっと喋らない大人しい子かと思ってた意外」

はてはて、私は二重人格なのだろうか。いやそんなことはない。りりかは明朗快活を擬人化したような、おしゃべり好きで声が大きい元気少女だ。
一方他人に映るりりかは鬱鬱快快を擬人化したような、しゃべらず、声が小さい暗黒少女だ。まさか自分の分身が歩いているのだろうかなどと厨二めいた妄想などを幾許かした。
なぜこのような差が生まれるのだろうか。この差ってなんですか?と問いたい気持ちは某テレビ番組以上だ。

過去談であるが、私が所属していた管弦楽部では、卒部のときに文集をみんなで作った。その際アンケートが採られ、怒ったら怖そうな人、相談しやすい人、アイドルになったら応援する人、国際結婚しそうな人、などなど様々なランキングが採られた。
あろうことか私は国際結婚しそうな人ランキング1位に選ばれた。
意味がわからない。英語も得意な方でもないし、洋楽を聞く訳でもない。海外で暮らしたいと思ったこともないし、ましてや国際結婚をしたいと思ったこともない。国際結婚したいなど口に出したこともない。にも関わらず私はこのランキングに選ばれてしまった。なぜだろう。

どんなに「わたし」を自分の中で創造したところで、意味がないのでは

はてさて。こんな風に周りから見られている自分と本物の自分は違う。もっといえば、「自分」が思う周りから見られている自分と「他人」が思う周りから見られている自分とで日本とブラジル並に距離が遠く、かなり差がある事に気づいた。ブラジルの人、聞こえますかー?なんでだろうなんでだろう。頭の中でお馴染みのリズムを刻みたくなる。ついでに踊りたくなるがここでは割愛。

さて、長くなったが、本題のテーマは「わたしの見せ方、見られ方」である。
思うに、どんなに「わたし」を自分の中で創造し建築していったところで、あまり意味がないのではないだろうか。
わたしがいくらそれをしたところで他人がそれをする。しかも、わたしの数は世界にたった1人なのに対し、他人の数は数え切れない。多数決で「わたし」は、他人が創造し建築したものが勝つのではないのか。それが本当のわたしなのではないか。そんなことすら思えてくる。

見せ方、見られ方の双方が手を取り脚を取り、パートナーとなる

しかし私は、「わたし」は表裏一体だと思う。そろそろ結論を書こう。「わたし」は2人いるのだ。
は?と思った方もいると思うが、「わたし」は2人いるのだ。大事な事なので2回言った。
見せ方をしている「わたし」、見られ方をしている「わたし」。この2人が揃い初めて「わたし」が生まれるのだ。

人は1人では生きていけない。というが、人とは既にわたしの中に2人いるのだ。もう他者間の軋轢に心を痛める必要はない。見せ方、見られ方の双方が手を取り脚を取り、パートナーとなるのだ。

ん?脚...?そうだ、二人三脚なんかしちゃって、「わたし」をみんなにさらけだそう。そう思えばいいのである。二人三脚で人生というマラソンを駆けていこうではないか。
私は「わたし」についてこういう結論に至った。