ぶっきらぼうで話下手、おまけに自分勝手だというのが、私が長い間変わらずに抱いていた父の印象だった。それは、そういえば幼い頃の記憶からきているのかもしれない。

いつだって自分勝手だ。演奏会に来てくれない父に私は癇癪を起こした

子供の頃から成人するまで、兄と私はあらゆる催し物、「発表会」というものを経験してきた。お遊戯会や運動会や、兄でいうなら剣道や野球の試合、私でいうならバレエやピアノの発表会。

父や母が観て喜ぶ姿を頭の片隅に想像しながら練習に練習を重ね、緊張と心躍る気持ちの両方が混ざり合った複雑な心持ちで発表の日を迎えるわけなのだ。

幼い頃は父と母そろって発表会を観に来てくれていた。だが、私が成長していくにつれ、照れくさい気持ちもあってか、父はだんだんとそういった催し物に姿を見せなくなった。

ある日私は、父に癇癪を起こしたことがあった。
それは忘れもしない高校2年生のとき、吹奏楽部の定期演奏会を間近に控え、練習も佳境に差し掛かっていた時期のことだった。

ピリピリと張り詰めた気持ちのまま帰宅し、家に帰った途端にどっと疲れが押し寄せてくるような日々を送っていた。

その日もまた同じように帰宅し、母が用意してくれていた夜ご飯を食べている時、定期演奏会の日時について父に話したことがあった。

「もし良かったら、引退前の最後の演奏会だから、どうかな」

仕事終わりの休みだしなぁ、というのが父の返答だったと思う。
その当時は全心全力でなにかに打ち込む、ということが自分にとって最も大切なポリシーだった。その熱い気持ちを否定されたように感じたのか、私は父の言葉を聞いて頭に血が上り癇癪を起こしたのだった。

今となってはどうしてそんなに頭にきたのか少し考えてしまうけれども、とにかく涙が次から次へと止まらず、あなたはいつだってそうだった、いつだって自分勝手だ、というようなことを言い放ち、母のことも父のことも困らせたことを覚えている。結局、その定期演奏会に父は来てくれなかった。

父が見ていた私は、いつも疲れて帰ってきた私で、練習がない日は廃人のようにソファで寝ている姿で、だから、もう幾度とない自分の晴れ姿を、どうか観に来てほしいと、当時の私はそれを願っていたのだと思う。

観に来てほしかったのだ。どうしても。

仕事を辞め実家に戻った。父と初めて仕事について腹を割って話をした

やがて私は成人して働き始め、発表会なんて機会はもっぱらなくなった。

そして挫折を味わい、仕事を辞め、心身ともにくたびれて実家に戻った今、思うことは父の偉大な存在のことだった。

実家で父と2人になったとき、初めて父と私は仕事において、腹を割って話をした。仕事での自分について。

すぐに足下をすくわれるから人を信用しない、自分ができないことで何度も人に壁を作ってきた、となにかとネガティブ思考を露呈する私とは対象的に、父は足下をすくわれてもなにをされてもまず人を信じること、なんでも誰にでもとにかくちゃんと話すこと、リーダーとして、上に立つ者として、部下に対して気を付けて接していることを教えてくれた。

私が見たこともないところで、父は部下をとりまとめる偉大な人だったのだ。

すぐそばにあった小さなぬくもり。自分勝手だったのは私の方だった

それは、会社を辞めて絶望まみれの私のなかに、ぽっと小さな光が灯るような、その光で思いがけず見えたような、新しい発見だった。

幼い頃、私が飼いたいと言って家にやってきたメダカや金魚、うさぎのフローラ、愛犬のオリーブ(この子は今も元気にお家にいる)の散歩や水槽の掃除を、休みの日に黙々と率先してやってくれた父。

家族の会話を聞きながら、でも自分は入ってこようとせずにほほえんだり煙草をふかしたりしている父。

2人だけになれば、自分なりに解釈する娘の性格について、そっと助言をくれる父。
全部全部、思いが自分勝手だったのは、一方通行だと思っていたのは、私の方だったのだ。

本当はすぐそばにあった、小さなぬくもりに包まれる時間。
今はその、父との時間、母との時間を、じっくり大切に過ごしていきたい。心身ともにくたびれてしなしなになった私は今、静かに切実に、そう思うのだ。