私は、嫌いな人が少ない。代わりに、苦手な人がいる。怒鳴り散らして無理な欲求をしてくる元上司、ヘラヘラと笑いながら人を小馬鹿にする元同級生、自分が気に入らないものは、「解釈違いです。地雷です」となんでもかんでも目の敵にする元フォロワー。

「相手に悪意が無いのなら仕方ない」。苦手な人にも、そう考えてきた

ただ、そんな上司は最終的にメンタルをやられて退職に追い込まれてしまった。そう思うと病気だからしょうがなかったとも言える。彼は、彼のさらに上の上司にまた圧力を掛けられていた被害者の一人だった。

同級生についても、私の通っていた学校はいわゆる訳ありの学生が通う単位校で、あの同級生も恐らく何らかの症状か特性でああいうものの見方しか出来なかったのだろう。学生なんて大人から見れば、まだまだ精神的に幼い部分はある。
元フォロワーは家庭環境が複雑らしかった。調べてみれば何かで我慢を強いられて育った人程、他者を許せない心情を持ちがちだと言う。

私は、おおよそ他人に嫌悪感を抱いても、こうして「相手に悪意が無いのなら仕方ない」という視点でそれを中和してきた。人の内側というのは外見では分からない。

私自身も発達障害を持ち、悪意がないにも関わらず煙たがられたり嫌われたり、なぜ理解してもらえないのだろう?という気持ちは嫌という程味わってきたからだ。

ネガティブな認識を疑って消化することは、私の長所で武器だった

「人が悪意や自覚なく迷惑行為をするからには、何かしらの理由があるはず」という思考は常で、物事には良い面も悪い面も必ずあると信じている。

例えば、浮気をした人というのは世間では必ずした本人を悪者として、それが例えば有名人であれば、謝罪会見をさせて仕事の場を奪い、さらに例えばそれが楽曲アーティストだとすれば、歌詞まで引用して作品まで叩かれる。

けど、そもそも浮気のきっかけが、パートナーに原因があるとしたら?
別れるに別れられない事情があるとしたら?
そもそもその二人の間に『浮気をしない』という取り決めはあったのだろうか?

人をひとりだけ、死ぬまで愛情を持ち続ける事なんて正直無理な話だとも思う。さらにその人が創った作品に罪はないはずなのに、その作品までもがバッシングを受ける必要はあるだろうか……? 

こんなふうに、世間一般的なネガティブな認識を疑いに疑って物事を消化していく事を、私自身は今まで長所としてきた。この特技は人付き合いが下手くそな自分にとってある意味で武器であり、何かが出来ない自分を正義化する盾でもあった。

ただ、武器といえどかなり諸刃の剣で、結果としては怒鳴る上司とは体調を崩す直前までパワハラメールを交わしていたし、茶化す同級生には何も言い返せぬまま卒業し、元フォロワーとは私自身が『地雷』の話題を無理して盛り上げた。

体調を崩した私。相手の立場に立って考えないことの大切さを知った

こんな調子で人と付き合っていると、当たり前だがヘトヘトにもなる。そのうちにふと目にした『HSP』、簡単に言えば『空気を読みすぎて疲れてしまう人』について調べていた。

空気を読みすぎてもはや自分が空気そのものになった気がして、ついに体調を崩して初めて、なんとかしたかったのがきっかけだ。

そこで目にした本の内容が今も忘れられない。

『人を嫌いになってもいい、嫌いな相手のいいところ探しはやめよう』

ようやくこの一言で、『相手の立場に立って考えない』ことの大切さを知った。
私が長所だ武器だと思っていたこれは、自滅する為のただの欠点だったのだ。自分を守るためには、自分中心で世界を回さなければいけない。

もちろん、わがままを通すことが許されるのとイコールではないが、人のわがままを己に通させないというバリアを張ることが、もしかしたらこの世で一番必要な呪文なのかもしれない。