人を好きになるのは「はしたない」と言われているようで自分を恥じた

最近知り合いが、マタニティフォトを撮ったらしい。母として生きる彼女が、妙に眩しく映る。もしかしたら、私もあんな風に子を育む未来があったのだろうか、それを幸せだと思うことがあったのだろうか。
純粋な生命の美しさを教わるようで嬉しい反面、自分のことをよく考えるようになった。私の母は、私に女になってほしくなかったのかもしれない。きっと気のせいで、思い過ごしなのだけれど、否定してくれる人が亡き今、その疑念をどう吹き飛ばすかが問題だった。母は、私が15歳の時に自死している。
私は女の子も男の子もいいな、と思ったことがある。でも、自分がバイセクシャルなのかはよく分からない。過去に好きだと思ったことが、恋愛的な意味でだったのかも分からない。恋とはなんだろう、と考える時に思い出す出来事がある。
12歳くらいの頃、私はテレビで観る俳優さんが好きだった。とても綺麗な顔をしていて、多分男の人として好きだった。こんな人とお付き合いしてみたいな、という意味だ。リビングでテレビを観ている時、彼が映ったので母親に「この人すごく格好良いでしょ」と伝えたのだ。「本当に好きなんだね、顔が真っ赤だよ」「あんたも女の子なのね」と母は笑って、そんなことを言っていた気がする。
私はその瞬間、何故か物凄くショックを受けてしまって、「そんなことないよ」と誤魔化して部屋に戻った。はしたないと言われた気がしたのだ。母は多少からかったつもりだったのだろうが、私は男の人を格好良いと思った自分がものすごく恥ずかしくて、いけないことをしたみたいで消えてしまいたくなった。
それ以降、男の子を格好良いと思うことはあまりなくなっていった。私は内気で繊細な子供で、母は人の気持ちには鈍感だった。
また第二次性徴期、私は生理がくるたびに布団を汚す子供だった。寝ている間にシーツの4分の1くらい真っ赤に染まってしまう。朝起きて母に「血が出た」と言えば、「なんで起きてトイレに行かないの!?」と叱られる。寝ている間に出る経血をどう察知すればいいのか分からなかったから、そんな理不尽なことを言うなよと思っていた。
そう思っても言わなかったのは、「みんなできるのにどうしてできないの?」と言われるのが分かっていたからだ。私は普通の子より出来が良くないらしく、母はそれを認めてくれなかった。
みんなどうしてるのかな、とも思っていたが聞いたことはなかった。多分だが、正解は夜用のナプキンをつけることだろう。私は何故か一種類のナプキンしか持っておらず、昼と夜で使い分けるということを知らなかった。
当時から生理不順で、3日で生理が終わる日もあれば、長い時は1ヶ月以上出血しっぱなしの時があった。大人になってから、1ヶ月経血が止まらなくて「あまり体調がよくない」と年上の女性にふとこぼしたら、目を白黒させて「病院には行った?」と聞かれた。普通の人は1ヶ月生理は続かないと、その時初めて知った。
生理は2日目が重いというけれど、私の場合2日目も3週間目も同じくらいたくさんの経血が出るということを説明したら、彼女の顔が引き攣っていくのが分かったから、慌てて「でも…」と食い下がった。「私の言うたくさん出るは、人の普通くらいかもしれないから、多分病院に行かなくても大丈夫」と私が言えば、「それでも1ヶ月血が止まらないのは心配だから、病院に行ってね」と言われたのだ。“心配”という言葉が、あたたかくてくすぐったかった。
子供の頃から「痛くないのにすぐ『痛い』と言う」と叱られてきた。「かなえは話を盛る」と。「痛い!」と泣いてもやめてもらえることはなく、大袈裟だと言われることが多かった。
そもそも何故「痛い!」と言うことがあったのかは覚えていないが、母がこれだけ言うのだから、私は少々盛りぐせがあるのだと思って育った。実際のところは分からない。分からなかったから母が死んだ後、私は左腕が傷跡で埋まるほど自傷行為をしたのかもしれない。痛くないのか痛いのか、分からなかった。
私の場合さまざまな事情が重なって25歳まで引きずる話となったが、思春期の色恋沙汰に親が首を突っ込んで、なんだか変な感じになるというのはありがちなことだろう。ありがちなことだからきっと、母の振る舞いも娘が色気付いてきて可愛く思ったんだろう、と思うことにする。なにせ死人に口なしなもので、答え合わせなんてできないのだから。
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