楽譜に書き込まれた言葉が、今の私に叫んでる。「しっかりして!」

今年も夏がやってきたと実感するとき、たとえば、ぽつぽつとセミが鳴き出すのが聞こえてきたときや、太陽が弾けるように輝きを放ち出したとき、音や香りから決まってよみがえるのは、中高時代のことだ。
中高時代、私が所属していた吹奏楽部では、学校の長い夏休み中に毎年コンクールに出場した。
だから中高時代の夏休みといえば、吹奏楽コンクールに出場するにあたっての、オーディション前のなんともいえない不安や、仲間との友情や、亀裂や、合宿の騒々しさや、本番前の痛みを感じるほどの指先の震えや、本番が終わってからの疲労感や、いろんな感情という感情がごちゃまぜになったような、なんともめまぐるしく、そして麗しい日々のことを思い出さずにはいられない。
当時、私は楽器を吹いている時間が好きだった。その頃から集団行動や大勢での会話が苦手だったのだけれども、楽器があれば人と会話ができている気がした。それは自分の音であり、言葉でもあったから。
朝昼放課後と勉強もせずに、ひたすら楽器を吹いていた日々が懐かしい。今となっては、とてもとても遠くなってしまった日々の記憶たちだ。
夏休み期間も、制服に楽器を斜めがけにして、カンカン照りのなか学校に通った。
毎日行ってらっしゃいと見送ってくれる母から「いいわね、青春ね。」なんて言われる度に、全然青春じゃないよ、と否定していたけれど、その否定も含め、大人になった今、振り返れば間違いなくあれは青春だったと思う。
あまりにも恐れ知らずであり無知であり、けれど挑戦と学びと活力に満ち満ちていた日々。
部内オーディションでは、1人ずつ広い部室に呼び出され、コンクール曲を吹かされた。
その緊張感といったら、今までの人生で1、2を争うほどのまさに恐怖体験だった。
そんな自分の負の感情をうち破るかのように、部室の重くてずっしりとした両開きドアを力強く押し出し、楽器を握りしめて中へと入っていくのだ。コーチの待つもとへと。
オーディションでの歓喜も悔しさも挫折ももちろんたくさん味わったが、私はそのひとつひとつの感情に正直に、発散するように、喜んだり泣いたりした。その当時のまわりの仲間もまた同じだった。
当時の私は、今よりもずっと、度胸がすわっていた。
そしてもっと正直に、誠実に毎日を生きていたと思う。
当時のコンクール曲の譜面を見返してみても、私は驚いてしまう。
当時、何百回何千回とめくり、ひたすらに向き合った、コーチの指示や仲間のアドバイスを書き込んだ譜面。
それは最初に新譜をながめたときとは比べものにならないほど、しなびてよれよれになった紙切れなのだった。その譜面には黒いもやしのような音符たちが、まるで踊るように、はねたり流れたりしているのだが、それが見えなくなるほどにびっしりと、鉛筆で「死んでもここで息継ぎしない!!!」や、「気合いでトックン!!!」や、「エネルギーを音にする!!!」などと殴り書きがされている。
私はそれを見て、思わず苦笑した。
だがそのあとで、居住まいを正さなければならない気持ちがした。そうでなければ、なんだかあの時の私に顔向けできないような気がした。
騒々しくて、無秩序で、仲間のだれかの部活辞める宣言や、それに伴う号泣や、コンクールの結果うんぬんや、だれかとだれかの喧嘩や、部長の最後の言葉や、そのすべてにみんなの感情が素直に溢れ出るようにいったりきたりした日々。
社会の平凡のなかで、とうの昔に無理やりねじ伏せてしまったもの。
ここまで歩いてくるために、いつのまにか蓋をしてしまった世界。記憶たち。
「しっかりして!!!しゃんとして!!!私を思い出して!!!」
あの当時の私が、今の私に叫んでいる声が聞こえてくるようだった(びっくりマークはきっと3つはついているだろう)。
前を向かなければならない。
私は譜面から目線を上げ、背筋を伸ばし、肺いっぱいに空気を吸い込んでから大きく吐き出した。
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