朝起きてすぐ、のろのろと家の洗面台に立つと、天井の角にクモを見つけた。
青々とした植物たちが美しい季節、5月のはじめの、ある休日のこと。

「辛抱強く、しばし待て」朝に見るクモの言い伝えに身震いした

それは直径2センチほどの、普段私が家のなかで見かけてきたクモよりもすこし大きめの、黒々としたクモだった。
私は、あら、と思う。

朝に見るクモは、有り難いから殺してはいけないとかなんとか、小さい頃に聞いた覚えがあり、私はさっそくそれについて調べてみた。
クモはご先祖様の使いで、朝に見るクモというのは「辛抱強く、しばし待て」という、ご先祖様からのメッセージを伝えにきているらしい。

「辛抱強く、しばし待て」。
私は思わず身震いした。
まるで今の自分に向けられたメッセージであるように感じて。それはあまりにも心当たりがあったのだ。

生きるエネルギーが不足していた矢先のクモとの出会いは明快だった

最近の私といえば、アルバイト先のトイレでなぜか急に涙が出てきて抑えられなくなったり、過去に感じた負の感情がフラッシュバックして身動きが取れなくなったり、呼吸が浅くなったり、一切だれにも会わずにいたいと願ったり、
毎日が憂鬱でしょうがなく、これからの人生を生きていくには、生きるエネルギーのようなものがあまりにも不足していた。

そんな矢先の、休日の朝の、クモとの出会い。
それは、新緑の活き活きとした香りを含んだ風が、思考停止になった私の頭の中に威勢よく吹き込んで、酸素をたっぷりと届けてくれるような、そんな明快さがあった。

その日、ひとりで散歩に出かけた。ふらふらと100円ショップに寄ると、白くてアンティークな植木鉢が売られていた。私はその植木鉢を、思わず手に取ってじっくりと眺めた。
なんて可愛らしい。この植木鉢に緑の映える植物を植えたい。そう思った。
そういった小さなことに、まだ感動できる自分がいたことに心底驚きながら。

そしてふと、私は思い出した。
それはかつての仕事おわりの、私が最も信頼している人と食事をしているとき。
昔自分は生きることをやめようと思ったことがある、とその人は話してくれた。でもその現場を大家さんに見つかって今もこうしてここにいる、と。
そのとき私は、衝撃のような歓喜のような心持ちで、もし大家さんがこの人を見つけてくれていなかったら、あるいはもう少し見つけるのが遅かったら、今こうして美味しいものを食べて笑う、この人のこの笑顔は見れなかったのかもしれないと、そのときそう思ったこと。

よかった、この人が笑っているところを見ることができて。
出会うことができて、よかった。
心の底からそう思ったこと。

辛抱強く待つことができたら、それだけで私たちの勝利だ

よし、家に帰ろう。
クモのいる洗面所がある家に。日が暮れてゆく商店街を歩き出しながら、私はそう考えていた。

クモと出会ってからもう半月が経とうとしているが、クモは相変わらずそこにいて、私が歯を磨くときも、顔を洗うときも、お風呂に入るときも、洗面所に行けば、たいていそれは長くて立派な足を天井に広げて存在感を放っていた。
非常に勇敢で、そのクモにはなにより威厳があった。
なぜだか分からないけれど、私にはそういったものがひしひしと感じられた。

「辛抱強く、しばし待て」。
生きていくことは、べらぼうにつらいことだ。途方もなく、果てがない。
でも、もし辛抱強く待つことができたら、生きていたら、それだけで私たちの勝利だ。

それはいつかだれかの小さな幸せになるかもしれないし、そのだれかの小さな幸せが、またいつかだれかの小さな幸せになり、いつかだれかの大きな「選択」を変えるかもしれないから。

朝、私は洗面台の前に立ち、そこから1日を始める。
天井に張りついたクモの下で、今日も、人々は生活をいとなむ。