私は今年で26になるが、老衰で亡くなる人というのを見送ったことがない。
近親者は2名とも自死を選んでおり、ある日突然亡くなった場合しか人を看取るという経験をしたことがないのだ。

人が自然に死に近づいていく姿は当たり前のようにゆっくりで怖い

そんな私にも、歳を重ねてゆく親族というのがいる。歳だからね、と朗らかに笑いながら少しずつ、少しずつ、身体の調子が緩やかに悪くなっていくその姿を、私はとても恐ろしい気持ちで眺めている。

人が自然に死に近づく姿というのは、当たり前のようにゆっくりで、でも確実に弱っていっていて、物凄く怖い。私にしたら自死を見送るよりよっぽど怖い。死にたいと思わない人が死ぬのだから、怖くてたまらない。遠くないいつか、さよならを迎えるその人に、私は何ができるのだろう。

父方の祖父母と初めてきちんと交流したのは24歳の冬だった。
私がオギャアと生まれてから、無論父方の祖父母というのは存在していたのだけれど、両親が頑なに交流を拒否したようで、会ったこともなければ写真で見たこともなかった。

ただ、誕生日やお正月などには達筆な手紙が届き、いくらかのお金を包んでくれていた。幼い頃は、あしながおじさんみたいだなと思っていたが、当たり前のように我が家では父方の祖父母に会うという選択肢が存在しなかったのでそういうものだと思っていた。

10代後半。生まれて初めて父と共に祖父母と食事をすることに…

12の時に両親が離婚し、母親に引き取られたものの15の時に母が自死し、親権が実の父に戻った私は、父から「おじいちゃんが会いたがっている」と聞かされた。思春期のような微妙な時期だったし、今更知らないおじいさんとおばあさんに会うのも気が進まない。

そもそも孫がうつ病であることを祖父母は知っているのだろうか?高校を中退し、精神科に入院していた孫のことを恥ずかしいとは思わないだろうかと不安だったし、怖かった。
その時期、実の父とのコミュニケーションもうまくいっておらず、周りの大人のことを何も信用できない状態だったので、私にNOという気力はなかった。

「座ってるだけでいいなら」と伝えて、10代後半、生まれて初めて父と共に祖父母と食事をした。おじいちゃんもおばあちゃんもとても優しい人で、「大きくなったな」「やっぱり佳苗ちゃんは美人だな」「細いけどちゃんと食べてるのか?たくさん食べなさい」と焼肉を次から次へと私の皿に置いてくれた。

「やっぱり聞いてた通りの可愛くて優しい子ね」とおばあちゃんはにこにこしていて、お酒を嗜んだおじいちゃんは少し赤くなった顔で「もっと早くに会えていたらなぁ」としみじみと呟いていた。

大人に無条件に優しくされた経験が全くなかった私は大層戸惑い、緊張で胃がひっくり返りそうだった。あまり動かない筋肉を動かして「元気だよ」「ずっと会えなくてごめんね」「いつもお手紙ありがとう」と言葉を並べたけれど、正直帰りたくて仕方なかった。突然現れた親切そうな老夫婦が、私に会えたことを物凄く喜んでくれている状況が理解できなかったのだ。

嘘みたいに優しい祖父母を避けていたけど、向き合おうと思った

虐待され、親に死なれ、うつ病とPTSDを患い、完全に自分をいらない子だと思っていたのに、目の前の人たちは私を普通の可愛い孫だと思っている。誰かが何かを騙しているんじゃないか?と思った。私はこんなことを言われるような人間ではないはずなのに、この人たちはなんなんだろうと居心地が悪くてすごく困った。

タクシーで帰る中、目眩と寒気がして俯く私におばあちゃんは「初めて会うから疲れちゃったね、おばあちゃんたち嬉しくて喋りすぎちゃったわ。休んでていいからね」と言ってくれた。嘘みたいな現実が物凄く、怖かった。

それからも何度か、祖父母の家に行かないかと父に誘われたが、体調を理由に断り続けていた。24歳の時、精神障害者手帳を取得したことをきっかけに、どうせ一生障害者なら可愛い孫として見てくれる人たちにちゃんと向き合ってもいいかもしれないと思い、一人で祖父母の家に泊まりに行った。

祖父母は変わらず親切だったが、私が今までどうやって生きてきたかを喋ると、昔気質のおじいちゃんがおいおいと泣き始めて「それ以上言わんでくれ」と私を抱きしめた。おばあちゃんは「なんでそんなことにね、ごめんね、ごめんね」とタオルで目元を抑えた。
私としては、あなたたちの孫は母方の祖父母と母親とあなたの息子に対して必要とされていない子供ですが、そんな孫でもいいですか?というつもりで話したのだけれど、そうは受け取らなかったらしい。

自分のことのように喜んでくれる祖父母に、私は何ができるだろう

正直私は、普通の心を持った人とのコミュニケーションが分からないので、二人がとてもショックを受けていることは分かるけれど、いま私は生きてるからいいかな、くらいのつもりで喋ってしまったのだ。言わなければ二人を傷つけることはなかったのかも、と思ったけれど、もう過ぎたことだった。

それから私は何かにつけて祖父母の家に電話するようになった。
楽しいこと、悲しいこと、エッセイで賞を取った時、新しい仕事が決まった時、電話で報告すれば自分のことのように喜んでくれた。

すぐにコロナ禍になり会うことは叶わなくなったが、二人とも「佳苗ちゃんはなんでもできる、ゆっくりやればいいんだよ」とあり得ないくらい優しい。
おじいちゃんもおばあちゃんももう歳だ。「あと10年早く会いたかった」と二人とも口癖のように言うけれど、今は身体のあちこちに小さな病があって、病院に通ったり健康的に過ごすことで手一杯のようだった。

そんな二人はいつか死ぬ。当たり前だが、歳をとるとはそういうことだ。
私はこれから何ができるだろう、何をしていきたいだろう。
怖いと思いながらも、考えることはやめられない。