告白しても断られる。私と相手で「好き」の意味が違っていたから

10代の頃は自分のことをレズビアンだと思っていた。歳を重ねるにつれてバイセクシャルなような気もしてきた。
男の子も女の子も好きになったことがあるが、想いを告げては不思議そうに断られることばかりだった。私は恋ではなく、愛を求めているのかもしれない。
そもそも、人を好きになるということがいまいちわからない人間だった。
告白をする、おそらく好きだと思った相手にも、可愛いと思われたい、付き合ったらこんなことをしたい、スキンシップを取りたい、セクシャルなことをしたいと思ったことはなかった。
ただ、話が合って落ち着く人と長く一緒にいるために、関係性にお付き合いという名前が付いたら便利なのではないか、と思ったのだ。
私が求めているのは恋人ではなくパートナーだ。
一緒にいてありのままでいられて、お互い成長できて、弱いところを見せても、苦しみを吐き出しても落ち着くことができて。
時には楽しいことで盛り上がるけれど、スキンシップはときめきのためではなく人肌に触れる安心感のためで、互いに数年経った後に「あの時の私たちはがむしゃらだったね」と笑い合えるような長くそばにいられる相手。私はそういう人をずっと探している。
その想像の中に、セクシャルな関係を持つだとか、デートは素敵なところに行きたいだとか、手をつなぎたい、ハグをしたいという欲求は限りなく薄く、相手がそれを愛を伝えるコミュニケーションツールだと思っているならば行うけれど、私からは特にそれを求めることはないだろう、と思っている。
この考え方がアセクシャル、ノンセクシャルと呼ばれるものに近いことを最近知った。
私の中ではパートナーとの間にセクシャルな行為が想定されていないから、好きになる相手は男の子でも女の子でも変わらなかった。人間であり、言葉の波長が合い、お互い尊敬し合える間柄であれば性別は関係なかった。
だから、世の中の人が恋人に求める条件や、恋をする時にキラキラと瞳を輝かせる姿が、どうにもよく分かっていなかった。
私もそういう相手が見つかればそうなるのだろうかと思い、特別自分をマイノリティだと思ってもいなかったので、相手からしたら「それは恋じゃないのでは?」という理由で「好きです」と告白して、「友達でいましょう」と言われることが多かった。
私はそれを何回か重ねることで、薄々、好きの意味が多分違うのだなということは気づいたけれど、好きと伝えて何か違う関係性にステップアップしたかったわけではないので、傷ついたり、悲しかったりすることはなかった。
お付き合いするということになれば接する時間が増えるけれど、お付き合いをしなくても相手のことを尊敬し、落ち着ける間柄であることは変わらないからだ。
だけれども、私のその曖昧な感覚で相手を混乱させてしまうことは、毎度申し訳なく思って後から謝罪をすることとなる。
人と触れ合うことがそんなに得意ではなく、触ったり触られたりすることは安心よりも緊張や恐怖を伴う。そして少しの嫌悪感。
あなたが大切だよ、あなたが好きだよ、と伝える術は、おしゃべりをする事だったり、同じ空間でお互い別のことをして時間を過ごすことだったり、互いの考えを共有することだったりする。
ドキドキしたり、駆け引きをしたり、嫌われてないか悩んだり、好きになってほしいと頑張ることは、とてつもなく大変なことのように思えてやりたくない。
私は身も心も女性であるけれど、女性らしく見られたいという気持ちも薄く、自分が好きな格好をして過ごしたい。
自分が大事にしている感覚が世間とは少し違うと気付いたのは最近で、恋ができないと思ったことはなかった。ただ、漫画やドラマで見るような男女の関係は魅力的には思えず、ひどくまどろっこしく疲れそうだなと思っていた。
LGBTQという言葉とともに多様性が叫ばれる時代に、人それぞれ重きを置く部分は違ってカラーがある、ということを知れてとても良かったと思う。だけれど少しだけ、寂しくも思う。
私は私の理想とする関係を、いつか誰かと築けるのだろうか。
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