私に旅が必要な理由。それは、大好きだった祖母にありがとうと言えなかったから、祖母の眠る長野に行き、ありがとうを伝えたいからである。
物心ついた頃から家庭に居場所がなかった。両親は私にばかり厳しく、家の中でゆっくり息をすることができなかった。

家庭にも学校にも居場所がなかった私。唯一の味方は祖母

進路を強制し、歯向かおうには罵倒され、彼らに私の人権という思想はまるでなかった。産まれてから一度も愛情を感じることがなかった私はそれがいかに異常な事かなど知る由もなく、気付けば他人を思いやることのできない氷の女王となっていた。
勿論、氷の女王だった私には家庭のみならず学校にも居場所がなく、私を大切にしてくれる人などいなかった。私はプライドために生かされている、いつしかそんな思考が私の頭の中にこびりついていた。
そんな中、祖母は唯一の私の味方であった。私をプライドのためではなく、心から愛してくれていた。14歳の頃、心乱れる私の手をシワシワの手で握ってくれた時、初めて他者から与えられた無償の愛を感じた。私はその無償の愛に一人涙を流したが、愛を感じたところで心が落ち着くことはなかった。
そんな私の喜びと言えば、お金を払って対価を得ることだけだった。美味しいものを食べたとき、欲しい物を買ったとき、私は一時的な喜びを得た。
私はお金を払うことでしか喜びを得ることが出来ない、そんな虚しさが余計に私の心を蝕んだ。

両親の元を離れて一人暮らし。いろいろな人の愛情に触れた

そんな私が初めて心を落ち着かせることが出来たのは、16歳の時だった。同じ中学に通い、同じ部活に所属していた同級生が交通事故で亡くなったのである。
彼女は夢というよりも今を大切に生きるタイプで、私の心に釘を刺すことが自己肯定感を保つ方法であるように感じられた。
聞くところによると、彼女は交通事故という名の深夜の夜遊びで亡くなったらしく、小児がんなどの可哀想というのとは少し種類の違うものだった。
ならばと思い、私はお通夜で皆が悲しくて泣いている所を一人安堵感を抱いていた。私はなんて心の乱れた人間なのだろうと思いながらも、またあの時の安堵感を得られる日は来るのだろうかと待ち望んでいた。

それから半年ほど経ち、前から体調を崩していた祖父が危篤状態に陥り、そのまま亡くなった。
亡くなる1ヶ月ほど前、親戚一同で無理をして祖父のために皆で見舞いに行った。しかし私は一人そっぽを向いて、祖父とは顔を合わせなかった。「私はお前らに愛されていないからお前の親も愛さない」という全力の敵対姿勢であったが、母親はそれに気付かず「酷かったよねぇー」と、悲しそうな声で呟くだけだった。
それから私は高等教育機関に進学し、両親の元を離れて一人暮らしを始めた。その際、私は多くの人の愛情に触れた。
苦手な科目の課題が上手くこなせない時、体調が悪く起き上がることが出来ない時、私は周囲の心温かい人に助けられた。時には意識を失い救急車で運ばれたこともあり、命拾いをしたこともあった。私は多くの人に支えられながら生きている。そう感じさせる出来事が何度もあった。

祖母が亡くなった時、感謝を伝えることができなかったから

そうしているうちに、私の祖母も5度の入退院を繰り返し、6度目の入院時に帰らぬ人となった。100歳だった。これまで何度も危機を乗り越え、本人も延命を望んでいなかったことから、悲しさよりも安堵感の方が大きかった。
あれだけ大好きだった祖母にもう一生会えないのに、私は驚くほど冷静だった。
思えば私よりも妹の方が寝たきりになった祖母とコミュニケーションを取っていたし、祖母の介護をするとともに面倒もよく見ていた。
亡くなった時も、私よりもずっと悲しんでいた。人は亡くなった時、耳は心肺停止後も少しの間聞こえるというが、私はその事実を忘れ「ありがとう!」と、叫ぶことができなかった。
あれだけ私のことを愛してくれたのに、私は祖母からの無償の愛に感謝の意を伝えることができなかった。墓場の前で叫んでも聞こえないことは分かっているが、せめてお空の上で私が墓場の前で感謝の意を伝えていることを見てくれたら、少しは喜んでくれるかもしれない。
だから私は祖母の眠る遠く離れた長野の地へ、旅に出る必要がある。大好きな祖母へ、ありがとうと伝えるために。