自覚はないが「仕事ができない」らしい私は、仕事以外で価値を探す

私は、働くことに苦手意識がある。
社会人として働きだす以前から、「私は仕事ができない」という潜在意識が強い。
理由は、アルバイトや大学での行事など、「働く」という場面に出くわしたとき、ことあるごとに怒られたりけなされたりしてきたためだ。
そして厄介なことに、自分にはまったく自覚がない。
たとえば、コンビニでアルバイトをしていたとき。朝6時から9時までのシフトで、週に2日ほど働いていた。
レジでお客を待ち、会計に来たらレジを打つ。お金を受け取る。品物を袋に詰める。単調な仕事だった。
ある日、レジ打ちの店員の態度が悪いと、会社に名指しでクレームが入った。私の名札をしっかり確認してからのクレームだった。
とくに会話もなく、品物を受け取りレジを打ち袋に詰めて、渡す。最後に「ありがとうございました」と挨拶を返すのも忘れず。ただそれだけの作業だった。
どうしてこうなるのか、自分にはわからなかった。でも、いつもこうなると思った。
その前は映画館で働いていた。
映画館では、先輩にある程度仕事ぶりを認められると、担当できる部署が徐々に増えていくのだが、私が役を増やしてもらったときには少しの噂がたった。
私が上司に根回しした、担当できる部署を増やして欲しいと自分から希望した、というものだ。まったくの事実無根だった。
自分では自覚がなくわからないのだが、周りで噂がたつということは、つまりそれほど仕事ができないと認識されているということなのだ。
努力とか、素直さとか、優しさとか、頑張りとか、他人に仕事を認めてもらうために必要なことはさまざまある。でも、それは具体的な評価基準を持たない。数値化できない。
そうした可視化できないものの中で唯一、「仕事ができない」ことだけが、動かざる事実のような気がした。
その経験は、大学時代も痛いほど味わっていた。
大学での行事で任された仕事を、サボりたいという感情は、まずなかった。一生懸命だったし、それはみんな同じだっただろう。
でも、「あんまり仕事していないよね」と白羽の矢が立つのは、決まって私だった。
たとえば、みんなで大学内を大掃除することになったとき、私と同じグループに配属された気の強い子はこう言った。
「役立たずと一緒じゃん、最悪だ」
その度に消えたくなった。泡みたいに。
仕事ができないことは、社会で生きていけないということを指す。その先に待つのは、つまり死なのだ。人は、生きているうちは仕事をする。
だから、仕事で必要とされないということは、存在を否定されることと同じほど、私は悲しい。
社会人になってからもそれは変わらなかった。仕事で認められたことは、一度もない。
ちょっとした気使いや機転が足りないのかもしれない。あるいは、人の負の感情をはねのける強さが。でも、生きなければならない。
仕事を自分の存在価値にしたら消えてしまいたくなってしまう。だから、私は仕事を生きるための道具としてのみ考えることにした。
仕事は人生のうちのほんの少し。ほかの楽しみのため、食べるため、笑うために、仕事をする。それでいい。
人に必要とされることは、仕事以外で満たせればいい。これからは、もっともっと自分を満足させてあげる人生にしたい。
自分の好きなことを探そうと思う。大切な人、信頼できる人ともっと出会えたらいいなと思う。
映画を見て、音楽を聞いて、本を読んで、自分の市場価値と関係なしに、たくさん芸術を愛せたらいいと思う。
そして、なんてことない平凡な日々がもっと輝けばいいと思う。
かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
恋愛やキャリアなど個人的な経験と、Metooやジェンダーなどの社会的関心が混ざり合ったエッセイやコラム、インタビューを配信しています。