デッサンをしていた。久しぶりに握る鉛筆の感触は新鮮で、慣れないというのか、異物感に苛まれたまま、描いていた。
完成すると、達成感でぱしゃりと写真を撮った。加えて、デッサンのせいで汚れた手のひらも撮影し、友人に送る。
「ねえ、すごくない?」
それを受けた友人はデッサンも褒めながら、「きれいな手だね」、そう送ってきた。
わたしは不意に、少し悲しい気持ちで手のひらを眺めた。きれいな手。それはわたしが大人になりきれていないことを知った、ある日のことを思い起こさせる言葉だった。

わたしの手を褒めてくれたその人は小さく笑い、「でもね」と続けた

わたしは当時19歳で、専門学校への進学を控えたアルバイターだった。
個人経営のこじんまりとした居酒屋で、客と話しながらお酒を運んだり、料理を作ったりと、ゆったりとした時間の流れる場所で働いていた。

その人はこのお店の常連で、派遣会社を経営している人だと言っていた。
めがねをかけていて、その奥にはやさしく垂れ下がる瞳があった。それでも、どこか厳しい、人の本質を見抜いてしまうような鋭さを感じさせる目だった。
その人は酔っ払うとおちゃらけて下ネタが増えるけれど、それはなんとなく人を不快にさせず、笑えてしまうものばかりだった。わたしはその人を良いお客さんだと思っていた。

「じゃあビールのおかわり、あと山口さんも」
注文を受けて、だめですよ、と笑いながら、わたしは瓶ビールを取り出す。カチ、と栓を抜いたら、素早くその人の席に向かう。
そして、瓶ビールを置いたわたしの手を見て、その人はこう言った。
「きれいな手だね」
わたしの手は、指が細長くて、だから時々ピアノやってた?なんて声をかけられる。わたしはわたしの手を気に入っていた。
「ありがとう、よく言われます」
軽口を叩くとその人は小さく笑って、
「でもね」
と目を伏せた。わたしは笑っていたと思う。わたしの瞳に蛍光灯の光が満遍なく入っているのがわかる。
「何もしていない手でもあるね」

「これから何かを成し遂げる手なんです」。わたしの声は震えていた

え、声にならず、わたしは少しの間、固まる。何もしていない手?
わたしが瞬時に思ったことは、見抜かれた、という焦りだった。
確かにわたしは学校に通い続けることもできなかったし、正社員になったこともなかった。それが、それがわたしの手のひらに確実に現れているのだ、わかる人にはわかるのだ、ということが怖くもあり、なにより恥ずかしかった。
「これから何かを成し遂げる手なんです」
そう言ったわたしの声は震えていた。女将さんが、こらいじめないの、と言ったおかげでその話は流れた。
わたしはいまだにその言葉を忘れることができずにいる。

「何もしていない手だねって言われたことあるの」
そう友人に送ると、彼はとてもいい言葉をわたしにくれた。
「その手を使わずともできることなんてたくさんある」

あれから4年経って、わたしは何かを成し遂げただろうか。この手を使わずとも、わたしはわたしの人生を、きちんと生きている、わたしは確かに、そう思えた。

手のひらを見つめる。デッサンで黒く汚れた手を、わたしはまだ洗っていない。こんなわかりやすい努力の痕はきっとすぐに消えてしまうだろう。
それでも。わたしは思った。
あれから色々なことがあったけれど、なんとか面白おかしく日々を過ごせている。わたしはまだ大人になれていないのかもしれない。
でも、と思う。それでも。わたしは何かを続けるだろう、始めるだろう。このきれいな手のままで。