夢を叶えた保育士としてのつらい経験。「悲しみ」を糧に新しい夢へ

私は、保育士になり、今年で約9年目になろうとしています。
幼い頃から保育士になることだけを夢に見てきました。そして、20歳の春に晴れて保育士として働くこととなりました。
就職先は、劣悪な環境で、一人の人間としてではなく物や道具として使われることが当たり前の園でした。
夢を諦めたくない一心で必死に働きました。その甲斐も虚しく、毎日浴びせられる暴言にとうとう気力は奪われ、考えることもやめました。夢という言葉は、私を縛り付ける鎖に変わっていきました。
保育士2年目の秋、私は毎日続く暴言に耐え切れなくなり、休職を余儀なくされました。そこから半年間、一人で生きることについて考えました。
友人たちは仕事で充実している姿をSNSに載せていました。それを見るたび、私の周りの酸素だけが薄くなり、視界はぼやけ過呼吸を起こしていました。
発する言葉は「辛い、苦しい。なんで私ばかり……」。
そんな行き場のない怒りや悲しみが全身を駆け巡るたびに、気力を奪っていきました。
そんなある日、私を外へと連れ出してくれた友人は「休むことも立派なことだよ。責任を感じているかもしれないけど、今こうして生きていることが、何よりも大切なことじゃん。時間が解決してくれるよ。泣きたい時は泣けばいい。辛いなら辛いって言えばいいんだよ。大丈夫。どんなことがあっても味方がほら!ここにいることも忘れないで。でも、本当に生きてて本当によかった……」。
そう言って抱きしめてくれました。
私はその言葉の途中から泣き、子どもの頃のように感情を爆発させていました。その間もずっと友人は「大丈夫。がんばったね」と寄り添い続けました。
その日から罪悪感は徐々に消えていきました。たくさん迷い悩んだ末、もう一度保育士をしたいと思うようになりました。子どもたちの笑顔を近くで見たいと……。
そして仕事を探し、新たな職場を見つけ、保育士としての再スタートを切りました。
初めの頃は不安になりながらも、沢山の人たちの支えがあり、保育士としての自信を取り戻し始めていました。子どもたちと関わることが楽しくて、成長を見られることにやりがいを感じていました。
新しい職場で働き始めて、7年が経とうとしています。
私も他の人たちも全力で走りすぎたのかもしれません。新型コロナウイルスの影響で、少しずつ職場の雰囲気は変わってしまいました。明るく励まし合っていた言葉は消えていき、不満が多くなっていきました。
認め合うことよりも蹴落とし合うことに生きがいを感じ始めた人たちの、はけ口の対象は誰でもよかったのかもしれません。そんな環境に私の心もまた疲れていきました。
きっと誰も悪くない状況で、ぶつけられない怒りに理由をつけて、それぞれの心を保とうとしているようにも感じました。
そんな時に見つけたもう一つの夢。
今まで保育士しか考えてこず、一生涯現役の保育士として生きることが目標でした。その職業を辞め、私は新たな夢を追いかけることにしたのです。
言葉を紡いで、苦しみの中にいる人たちを私なりの文章で寄り添う物書きになりたいと。
無謀な挑戦かもしれない。ほとんどの人は無理だというかもしれない。しかし、私には自信がありました。悲しみの奥深くまで見てきたからこそ、伝えられるものがあるのです。楽しい記憶よりも悲しい記憶が多かったけれど、その度に言葉に救われてきたからこそ。
保育士として働いた約9年は無駄ではなかったと思います。沢山の笑顔に出会えて、大好きと純粋に言ってもらえる職業は、中々ありません。一生分の大好きを言ってもらい、本当に幸せでした。心から保育士をしていてよかったと思う瞬間が何度もありました。
そして、私がかつて見てきた大切な子どもたち、そしてこれから出会う人たちが道に迷わないように、悲しい思いをしても肩の力を抜いて我慢をすることなく、辛い時には言葉に出して自然に涙を流すことができるような物書きになりたいのです。
きっと、人それぞれ辛さの重みも感じ方も違うと思います。そこに大きいも小さいもないのです。「頑張れ」ではなく、「よくがんばったね」と言いたい。「何が辛いの?」ではなくそっと抱きしめて心の痛みを分かち合いたい。
それが、私にはできると思うから。その一歩を確実に踏みだしているからこそ、本業である保育士を辞め、夢のために自分の人生をかけてみようと思います。
今まで走り続けてきた自分に「よくがんばったね、お疲れさま」と抱きしめながら。
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