私は数々の恋愛で失敗を重ねてきた。20代のほとんどは振られることが多かったのだが、そんな私にも振った経験も少なからず存在する。そして、別れを経験するたびに、「どうしてこんなにクズばかりに当たるのか」と自暴自棄になることが多かった。

今回は、私が振った一人、「歯がない彼」について書いていこうと思う。

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彼と出会ったのは、クラブだった。まだ、コロナが無く、生活に自由があった頃。いつものように友人とクラブに出かけた。

私たちは、決まって定位置の椅子に座り、いつもジンジャーエールをお酒の代わりとして飲んでいた。薄暗い世界で様々な人間模様を、一つの景色として見ることが好きだった。

私たちは、いつものように仕事の愚痴をジンジャーエールのつまみとして話していた。すると、彼が私たちに声をかけてきたのだ。

メガネをかけ、いかにも優しそうな雰囲気の彼に、クラブとは相反する人だと思った。

「もしよければ、少しお話しいいですか?」と緊張しながら声をかけてきた彼に、友人は黙って携帯を見つめ、私は一言「すみません、今、忙しいんです」と断った。すると、彼は「そうですよね……すみませんでした」と肩を落とし、暗闇に消えていった。しかし、私は何故か彼の姿が頭の片隅から消えなかった。

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当時の私は、恋愛が今以上に上手くいかず、付き合う人は気が強く自己中心的な人ばかりだった。優しさの心をどこかに置き忘れた人たちとの恋愛に疲れていた。だからこそ、優しさを纏った雰囲気の彼に、どこか惹かれるものがあったのかもしれない。そして、いつもの私ならあり得ない行動をするのである。

「ねえ、さっきの人、ちょっと気になるんだけど……。探しに行きたい」

すると、友人は「珍しいね、そんなこと言うの。いいよ、そこまで言うなら探しにいこうか」と彼を探すことにした。

気づけばクラブも一番人が多くなる時間帯になり、流石にここまで多くては探すのは困難に思い、「もう、諦める」というと、友人が「ねえ、あの人じゃない?あそこにいる人!絶対そうだよ。声かけておいで」と見つけてくれたのだ。

もはや運命さえ感じ、一目散に彼のところへ駆けつけていた。

「あの、先ほど声をかけてくれましたよね?実は、あの後気になって探してたんです。よかった!会えて」と言うと、彼は少し驚いた様子で「僕も嬉しいです」と口元に手をあて、照れ笑いをした。

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付き合い始めてからも彼は優しく、私のことを大事にしてくれた。時にはぶつかることもあったが、今までの人とは比べものにならないくらいに優しかった。

しかし、付き合ってから私は、あることが気になっていた。

彼はいつも笑う時に歯を隠すように笑う。手で隠すこともあれば、口を開けずに笑うこともある。その姿に不自然さを感じていた。

ただの癖なのか、それとも口の中に秘密があるのか。何度も聞こうとしたが、デリケートなことだけに言うのを随分ためらった。

ある日、些細なことで彼と言い争いになった。内容すら覚えていないレベルなのだが、お互い感情的になり、遂に私は言ってしまった。

「ねえ、なんでいつも口元を隠すの?何か言えないことでもあるの?」と。

すると彼は黙ったまま俯いた。ここまで言ってしまえば後戻りはできない。すると彼がゆっくりと顔をあげてこういった。

「実は、僕には歯がない。口の中には8本の歯しかないんだ」と。

私は、何かの冗談だと思ったが、開けられた口の中を覗くと、そこには、8本の歯と、むき出しのボルトだけの歯茎があった。その光景に言葉を失い、沈黙が流れた。

我にかえり、何故歯医者にいかないのかと聞くと、「面倒だから」というシンプルで馬鹿馬鹿しい答えが返ってきた。それから、何度か歯医者に行くように説得したが、あらゆる理由をつけて断られた。

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徐々に関係は拗れていき、私は彼に別れを告げた。

初めは「別れたくないよ。悪いところがあれば直すから」と言われたが、私は「何度も歯医者に誘ったのに、ここまで放置する人とは流石に付き合えない。関係の修復は難しいけど、せめて歯医者に行って歯を治してください」と伝え、別れたのだ。優しかった彼の衝撃的な姿をどうしても受け入れることができなかった。

歯医者が怖いのか、過去にトラウマがあるのかなど聞いてきたが、結局は極度のめんどくさがり屋だということが判明し、あっけなく関係は終わった。そして、この経験を踏まえ、私は恋愛に発展しそうな人には過去の教訓から必ず聞くことがある。

「歯は全部ありますか?」