私は、コンプレックスの塊だ。
小さく細い目が嫌いだ。痩せほそり、お腹が前に突き出た体が嫌いだ。
少しだけ尖った顎も嫌いだ。何より、誰にも受け入れられず、”ブス”と言われ続けたこの姿が許せなかった。

学生時代は、外見至上主義が露骨なまでに表れていた。目鼻立ちがはっきりとし、女性としての柔らかい雰囲気を持つ人は、問答無用でチヤホヤされ、優遇されていた。
その横で、私は、ただただ自分の容姿を悔いた。どの部分にも当てはまらない容姿に、絶望した。
少しでも受け入れてもらうためならなんでもした。慣れない化粧をしたり、似合わない服も着た。その度に鏡に映る姿は醜く哀れに見えたのだ。

「これは、私じゃない。こんな姿、私じゃない」
そう思えば思うほど、容姿を嫌うようになった。慣れないアイプチをして、大きなカラコンをつけたりもした。全く別人になった姿を見て、少なからずチヤホヤする人間も表れたが、本来の姿を見せると、風のように去ってしまった。
結局、作られた人形のような私を見ているだけで、人間としての本来の姿を見てくれることは、なかったのだ。

◎          ◎

大人になっても外見至上主義の世界は変わることはなく、別人に変わることも当たり前になってしまった。
本当の私ではなく、もう一人の作られた私として、恋愛もした。しかし、心が満たされることはなく、結局上手くもいかなかった。

ある日、いつものようにアイプチとカラコンをつけようと支度をしていると、二つとも行方がわからなくなっていた。どこを探しても見つからず、友人との待ち合わせの時間も迫りつつあったため、仕方なく一重のまま化粧をすることにした。
当然、気持ちはブルーになり、出かけることさえ憂鬱になり足取りも重くなっていた。

友人と待ち合わせ場所で落ち合うと、彼女は真っ先にこう言ったのだ。
「今日のメイクすごくいいよ!一重の方が、良さが出てるし、前よりもずっとあなたらしくて素敵だよ」と。
私は、友人の言葉に驚いたものの、彼女なりの優しさに心が救われた気がした。

「本当に?二重のがいいと思うんだけど……」
「そうかな、作られたメイクよりも、あなた自身の姿がわかる今の方が、私は好きだよ。他の人は知らないけどね」
そう言ってくれたのだ。
純粋に嬉しかった。
初めて私自身を認められた気がした。

◎          ◎

この日を境に、少しずつ一重でメイクをすることが増えていった。その行動は、容姿を受け入れることにも繋がったのだ。私は、まだ使っている途中のアイプチとカラコンをゴミ箱に捨てた。過去と決別するために。
数々の外見至上主義を目の当たりにしてきたからこそ、コンプレックスだらけの容姿を受け入れることは長い間できなかった。しかし、友人が見つけてくれた”私らしさ”を、今では誇りに思っている。一重の目も体も全て私なのだ。

しかし、未だに外見至上主義の世界は、至る所に存在し、多くの人が自分のコンプレックスと向き合い、戦っている気がする。本来の姿こそ、何にも変えられない唯一無二の存在なのに。
ただ、一つだけ言いたいことがある。
化粧をすることも、アイプチやカラコンをすることも、そして、美容整形をすることも、自分を否定することではなく、向き合おうとしているからなのかもしれない。自分の受け入れられない部分を、好きになるための行動なのかもしれない。

人それぞれ、変わりたいと思う気持ちも形も違うのだから。その人が思う、自分自身を愛してほしいと思うのだ。
誰かに言われて変えるものではなく、そこに自分の意志があるかどうかが大切だと私は思う。そして、一番の醜さは、自分自身を棚に上げ、誰かの容姿を否定しながら、時に心の中にトラウマとして残す心の汚さだと私は思うのだ。

私と同じように容姿に苦しむ人がいるのなら、自分の信念を曲げずに本当の自分を、なりたい“私”を見てほしい。
きっとあなたの思いを、本来の姿を、大切な誰かが心の鏡で見てくれるはずだから。