「新聞記者でした」と人に話すと、驚かれることが多々ある。
90%以上、100%に近いと思う。
私の見た目はマイペースな雰囲気で、多忙を極める仕事のイメージからかけ離れているからだと考える。
実際に仕事は休みなく想像以上に過酷。2年経たず、体調を崩して辞めることになった。

孤独な私。しかし、仕事を通じて増えていく出逢い

学生時代から挑戦したかった仕事だったので、続けられず悔しかった。
けれど、私が過ごした雪国での暮らしは色濃く、また住みたいと心に残る出来事だった。

配属先は寒さの厳しい雪国だった。中心部から山を越え辿り着くローカルな街。生活には車が必須で、東京で生まれ育った私ははじめての環境に戸惑い、慣れない日々を過ごした。

学生時代の友人はほとんど都内で就職。父子家庭で育った私の父は再婚しており、その街に知り合いがいないことはもちろん、周りに頼れる人がいなかった。会社から自宅に戻ると、いつも孤独に包まれていた。

けれど日々の取材をしていく中で、自然と知り合いが増えていった。
1日2〜3件、およそ1年で500人以上と出会ったと思う。

当初は取材がうまくできず、深く心から話せなかったなと一人反省会を繰り返した。
休日は近所のカフェを訪れ、ただぼーっと過ごした。

その後数ヶ月が経ち、事態は少しずつ変化した。取材で知り合った方とご飯に行く機会が増え、同世代の友人が何人かできた。
プライベートで買い物に出かけ、恋バナをしたりされたり、誕生日プレゼントを贈りあったり。
地元のスポーツチームに混ぜてもらい、試合にも参加した。全くの戦力外だが「一緒に楽しもう」と受け入れてくれたのが嬉しかった。

再び伝える仕事へ。第二の故郷に想いを寄せて

その後体調を崩し、仕事を辞めて東京に戻った。何人かはFacebookやLINEでつながっていて、しばらく経って結婚の報告も受けた。
もし今自分が仕事を続けていたら、近くで祝福できたのだろうなと歯がゆい気持ちがあった。
仕事やプライベートを通し、もっとたくさんの景色が見えたのだろう。
過去に思い描いた理想と出来なかった現実の差が苦しく、自分を責めた。

東京に戻ってしばらく経ち、「書く仕事を続けたい」とフリーペーパーのお手伝いを経て、小さなweb会社に入社。ライターをはじめた。
結婚を報告してくれた友人に先日、ライターをしている話をしたところ、「書くのが好きなんだね。しーちゃん(私のあだ名)らしい。応援してるよー」と言葉をもらい、ふわり涙がこぼれた。

あのとき新聞記者を選んだからこそ、知らなかった世界に出会うことができ、人の優しさに触れることができた。
「物事を続けられない自分は不完全だ」と決めつけ、思い込んでいた。勝手に基準を自分で定め、できない自分を責めていたのはいつもそばにいる自分自身だった。
ふと周りを見渡すと、記者の同期も何人か辞め、学生時代の友人も転職していた。
時代が移り変わり、転職や副業も当たり前になってきている。私のような人も実は増えているのではないだろうかと気づいた。

慣れ親しんだ土地を離れ、わずか数年だが心に残った街の景色。物理的には遠くても、私の中では心の故郷になっている。これからも仕事を辞めてもはじめても。どんな自分も受け入れ、人との繋がりや偶然の出会いを大切に生きていきたい。