私は、とても泣き虫だ。幼い頃は、感受性が豊かすぎるせいで、本当に些細なことで泣いていた。
特に、人前に出ることが苦手な私は、運動会やマラソン大会など、大勢の人たちに注目されることが苦手で、その度になんとも言えない感情が湧き上がり、必ず泣いていた。泣くという姿を見られることが恥ずかしいはずなのに、隠すことができない涙に随分と苦労をした。

◎          ◎

しかし、私が社会人になってからは、涙を人前で見せることを極端に避け、無理矢理にでも流さないようにしていた。どれだけ、辛い環境でも泣くことは、一人になってからと決めていた。
だから、泣きたい時は、一人の空間に行き、そっと涙を流していた。決して泣くことが悪いわけじゃない。ただ、泣いている自分自身が嫌いだったのだ。「どうしてこんなことで泣くんだ!もっとやれるはずなのに。泣くほど頑張ってないじゃないか」と何度も心を奮い立たせながら過ごした結果、感情を表に出すことをしなくなってしまった。

まるで機械のように言われたことを淡々とこなす日々が続いていく。どれだけ感動する映画を見ても、思い出の曲を聴いても涙を流すことはなかった。私は、自分の感情を押し殺すあまりに、出し方を忘れてしまったのだ。
ただ、呆然と流れ行く時間を見つめながら、ふと「泣けたらどれだけ楽なんだろうか」と思うこともあった。しかし、乾いた目からは何も出ることはなかった。

もしも、辛いと叫んだら誰かは助けてくれるだろうか。助けを求めたら手を差し伸べてくれるだろうか。そんなことを考え出したらキリがないのは自分でも分かっていた。だからこそ考えることをやめ、涙を流すことを諦めたのかもしれない。
そんなある日、テレビから昔の曲が流れてきた。それが、坂本九の「上を向いて歩こう」だった。

◎          ◎

まるで、今の自分を表しているかのような歌詞が、心の中へスッと入ってくる。
気がつくと涙が頬をつたい流れていた。
「あぁ、我慢していたんだ。涙がこぼれないように私なりに蓋をしていたのか」
そう思うと、今まで流せなかった分まで溢れてきてしまった。きっと、その時の感情が本来の私の姿なんだと。
しかし、いつしか人の目を気にするあまり、感情を出すことが恥ずかしいことだと考えるようになっていた。泣くことは弱い人間がするものだと勝手に思い込んでいたのだ。
そんな、偏った考え方が、自分自身を壊してしまったのかもしれない。私はあの日以来、涙を流したい時には「上を向いて歩こう」を空を見上げながら聴くようになった。涙を堪えてきた分だけ、私なりの思いがあることを知れたから。

人は、感情という素晴らしいものを持っている。本来なら、大人も子どもも関係なく思いを素直に出し、感情の赴くままに自分をさらけ出して良いと思う。しかし、中には固定概念に縛られて感情を出すことを、涙を流すことを弱いと捉える人がいるのも事実だ。私自身、心無い言葉で、自分の感情に対して、非難を浴びたことが何度もあった。

◎          ◎

でも、今なら思う。きっと、自分が出来ないことをする人に対して、悔しさという感情の表れなのではないかと。もしかしたら、文句を言っている人こそ、涙を流して感情のまま素直に生きていきたいと思っているのではないかと。
私は、そんな人たちにそっとハンカチを渡せられる人になりたい。「もう、頑張らなくていいよ。そんなに肩の力を入れて誰かを攻撃しなくて良いんだよ。泣きたい時は泣けば良いんだ」と。
そうしたら、相手の感情は揺れ動くだろうか。本当の姿を見せてくれるだろうか。
私は思うのだ。涙こそ本来の姿を表す証なんだと。