仕事を辞めた。全てを投げ捨てたい、何もかも嫌になった。
「これからどうしよう……」
息の詰まるような受験勉強、嵐のように過ぎ去った就職活動。学生時代は常にテスト勉強に追われ、社会人生活が始まると今度は終わらない仕事に翻弄され、気が休まることのない日々を送った。
いつも何かに追われていた私は、「退職」の二文字を会社に提示した瞬間、自由の身となり全てから解放されたように思えた。「自由」と「無職」は紙一重だった。もう何にも、誰にも干渉されないのだ。

なのに私はすぐ絶望に陥った。
自ら選んだ自由の道は最適な答えのはずなのに、いきなり社会から見放された気がしたのだった。

古民家からの芳しい香りに引き寄せられた

仕事を辞めて数日が経ったころ、私は平日の昼間に目的なく街を歩くことが日課となった。
先のことはまだ考えていない。道ゆく人はまばらなのに、なぜか身体は窮屈に思えた。

ふと顔を上げると、目線の先に古民家が映った。年季の入った家屋から、芳しい香りが抜けふわりと鼻をくすぐる。目を凝らすと折れそうな柱の先にメニュー表のようなものが掲示されていた。どうやらカフェのようだった。
おもむろに扉に手をかける。ぎしっと音が響き、そっと足を踏み入れた。ハッと息を呑む。ずらり棚に整列する何十ものコーヒーカップ、華麗にコーヒーを淹れるバリスタさんが目に飛び込んだ。
吹き抜けの造りでガタガタと不安定な音が響く店内で、私の胸はうずいた。童心にかえるような、何も考えずにただ好奇心に従う気持ちが呼び起こされたのだ。

たった一人しか通れない階段をそっとよじ登り、客席へ向かった。屋根裏のように天井が低い二階席。レトロな木々の造りで、しかし塗料を薄く重ね、ゆっくりと歳をとっているように見えた。
店内奥の窓際席が空いており、そっと腰をかけた。私はメニューに目もくれず、一杯のブレンドコーヒーを注文した。店内に漂う芳しい香りに包まれ、考えるよりも先に私の心が決めていた。

印象に残るコーヒーに出会ったことがなかった

「お待たせしました」と数分後、重厚なカップに入った淹れたてのコーヒーがやってきた。昼間の陽光が窓から注ぎ、キラキラと光るコーヒー。一口飲んでその豊かな口溶けに酔いしれた。
「こんな美味しいコーヒー、出会ったことない」
もしかしたら同等、もっと心に残る一杯を飲んだことがあったのかもしれない。これまではお店で何か飲み物を頼んでもサッと口に含み、足早に店を後にする日々を送っていた私。大きな印象を抱くことができなかった。

窓の外に目を向けると、真っ直ぐと空に伸びる初夏の木々が目に入る。まだ芽吹きはじめたばかりだった。これから青くなるのだろう、対照的に何も色づかない自分がみすぼらしかった。現実に戻り、虚無感に打ちひしがれた。
ふとテーブル横の低い棚に目を向けると、色鉛筆と小さなノートが無造作に置かれていた。「自由にお書きください」と手描きのポップを見つけ、席を立ち、思わず手に取った。ノートを開くと、そこにはびっしりと走り書きの文字たちが並んでいた。

「おいしかったです」とお店へのメッセージ。
ケーキやコーヒーを描いた繊細なタッチのイラスト。
「友達と来ました」と日記のように紡がれた字。
顔を知らない人の言葉の数々は自分に向けられたものではないのに、温もりが感じられた。

安らぎを求めて集まり、人が交差する。波止場のような場所

私とこのカフェは同い年だった。正確にはカフェは1996年創業、私は95年生まれと1年異なるが、カフェは6月、私は秋生まれとあって、わずか数ヶ月、同い年になる瞬間があった。
偶然なのに、私がそこに立ち寄ったのは必然のようにも思えた。オーナーさんがカフェ創業について書籍を記していたことを知り、私は図書館に向かい一読した。

「コーヒーは家で淹れると安いのに、なぜ人は一杯のコーヒーに数百円も払うのか。その理由は居心地・場所を求める対価であり、その分安らぎを得るのだった」
そういった記述を見て、カフェは自由な場なのだなあと想像を膨らませた。どんな人も入ることが許され、身分や経歴、性別、国籍全てに左右されない、人々が行き交う波止場のような場所。同じお金を払うことで、誰もが平等に、自由な感覚で安らぎを得ることができる。
空っぽの私。偶然ではあるが、きっと必然としてあの場所に導かれ、そして枯れた心に燈を宿らせてくれたのだ。
自分なりに勝手に解釈をして、心の空白が埋まるような充足感を得た。

季節は巡り、再び訪れたカフェで気づいたこと

私は数ヶ月後、再就職をして社会に復帰した。あのカフェのある街を離れることになったのだが、休みの日は癒しを求めてさまざまなカフェを訪ねた。主にコーヒーを頼み、どきどき甘いものを選ぶのがルーティーンとなった。
特別何かをすることはなく、本を読むこともあれば店内の音楽に耳を傾け、街ゆく人を窓越しに眺めるだけのこともあった。相変わらず仕事は嫌なことばかり。しかしカフェにいる時間だけは頭が空っぽになり、気持ちが浄化されるのだった。

季節が巡り、私はあのカフェのある街を訪れ、ついに再訪が叶った。
変わらずぎしっとなる扉が懐かしい。二階に向かうと、窓際奥の同じ席が空いており迷わずその席に着いた。今度はじっくりメニューを眺め、コーヒーとケーキをオーダーした。
コーヒーは香りよく、当時を思い出す芳しさが広がる。バターの効いたケーキは飲み物とよく合い、一口ずつ大切に口に運んだ。

この日は9月だった。窓から見える木々は紅葉色に染まり、どんどん色を濃くするのだろうと目を細めた。
テーブル横の棚に目を向けると、そこにあったはずのノートがなかった。誰かが描いているのかもしれない、ふっと店内を見渡すと、カップルや夫婦、一人の方など思い思いに過ごしていることにその時はじめて気がついた。

人がたくさんいる。距離はそう遠くないのに、周りの雑音が気にならなかった。ただテーブルから昇るコーヒーの豊かな香りと、窓越しに見える色づいた木々に魅了されていた。
今度は誰かを連れて訪れようかなと、大切な人たちを思い浮かべた。でもやっぱり秘密にしたい、そんなふうに思う自分は独占的なのかもしれないなあと気恥ずかしく頬を緩めた。「おいしかったです」と帰り際、店員さんに笑顔を向け、お店を後にした。

偶然出会った一杯のコーヒーが教えてくれた

生きていると何かに追われてばかり。全てが嫌になることもある。けれど、カフェにいる時間は誰にも邪魔されず、孤独さえも覚えない解放感を与えてくれた。
忙しない日々にはリフレッシュする時間が必要で、人それぞれ場所は異なるが、私にとってカフェという場所は心に安らぎをくれる居場所となった。ここで出会った一杯の芳しいコーヒーが、私に教えてくれたのだった。

この時、図らずとも私とこのカフェは同い年だった。これからもよろしくね、と心の中で唱えてみる。
今度は真夏か真冬に来ようかな。胸を弾ませ、いつもより大きめの歩幅で帰路を歩んだ。