どこまでも広がる海に私は、心を奪われていた。吸い込まれそうな空を見て、涙が溢れそうになっていた。
もう少しで潮が満ちて、波がすぐそこまで迫ってくるような姿へと変わってしまった砂浜に、私は立っていた。

かつて従姉妹たちと過ごした思い出の場所は、過去の記憶をどこかに置き去りにしてしまっているような、それでもって、日々景色が変わっているようにも感じた。
時代のせいなのか、温暖化が進んでしまっているせいなのかも分からないが、子ども時代に海水浴を楽しんだ場所には、ゴミと捨てられた船が置いてある。茂みを進んでいくとそこには、どこまでも広がる海があるのだ。久しぶりに目に映る場所は、まるで当時の感覚を呼び覚まし、気がつくと海に向かって進んでいた。

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誰もいない海の端で、奥に見えるテトラポットを眺めながら呆然と立ち尽くす。小さい頃私は、じいちゃんの船に乗せてもらったことがあった。浜に行き、漁師をしているじいちゃんを誇りに思いながら、どこまでも続く世界に魅了されていた。

しかし、去年の八月に亡くなったじいちゃんの船は、どこを見渡しても置いてなかった。
それもそうだ。亡くなってすぐに処分してしまったのだから。大好きな船もじいちゃんの姿も見当たらないのは当たり前だった。
心にポッカリと空いた穴をこじ開けようとする空の広さに、私は涙が溢れたのかもしれない。どこかでじいちゃんが「ようきたな」と言って名前を呼んでくれる気がしていたのかもしれない。だから、会えるはずもない海へと私は足を運んでいたのだ。
もちろん、じいちゃんに会えることはなかったし、船もない。

私の心に生き続けていると思っていても、触れることのない存在を確かめにいくこと自体が虚しく切なかった。
そんなことは分かっていたのに、頭では理解していたはずなのに改めて「もう、じいちゃんはいないんだよ」と海に言われているような気がして涙が出たのだろう。
時間の感覚も忘れて薄暗くなる海を見つめていた。

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ふと我にかえり、祖父母の家へと帰った。
私が海に行っていたことは、家族も親戚も気づいていなかった。私も言うつもりもなかったのだが、一人だけ伝えたい人がいた。
私は仏壇に向かい、正座をしながら「じいちゃんの大好きな海を見に行ってきたよ。船はなかったけど、昔見た景色と変わってなかった。今度また、海に連れて行くから」。
そう小さな嘘をついて手を合わせたのだ。

今年はじいちゃんが亡くなって一回忌を迎える年だ。亡くなった時は、深い悲しみに飲み込まれていても、時が経てばいつしか思い出となり、少しずつ頭の片隅にしまってしまう。人間の記憶なんて曖昧なもので、あれだけ涙を流しても時間が経てば普段通りの生活に戻っていく。同じ気持ちのまま泣き続けることも感傷に浸り続けることも出来ない。

それが分かっているから、ふらっと海を見に行きたくなったのかもしれない。そして、海を見ると大好きなじいちゃんのことを思い出せる気がするのだ。
タバコを吹かしながら海を眺めていた姿が。海を愛し愛されて生きていた頃の姿を。

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「あなたの生きていた頃の景色とは少しだけ変わってしまいましたが、潮風と時折聞こえる船の汽笛が響く海だけは、何も変わっていませんでした。風が運んだ海の匂いは空の上にも届いているでしょうか」

そんなことを思いながら変わりつつある景色をこれからも見に行くだろう。
大好きなじいちゃんの思い出を忘れないように。