私にほんの少しの勇気があれば、何かできることがあったのかもしれない。私が、もっと違うやり方を知っていたら、傷つかずに助けられることができたのかもしれない。それが出来なかった私は、ただ、見ていることしか出来なかった。

仕事という小さな社会の中で、生きづらさを感じて働いている人は、少なからずいる。本当に些細なことだったとしても、他人からしたら甘えだと思われていたとしても、当事者からしたら、悩んでいるのかもしれない。苦しんでいるのかもしれない。助けてほしいと叫んでいるのかもしれない。
けれども、そんな声にただひたすら俯くことしか出来なくて、黙って見ていることしか出来なくて、社会の中の共犯者になっていたのかもしれないんだ。

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保育士という女だけの社会で可愛さは通用しない。
仕事が出来るか、出来ないか。
使えるか、使えないか。
限られた選択肢の中で、一つでも間違ってしまえば、関係なかったポジションにいたとしても、加害者にも被害者にもなってしまう。
もっと恐ろしいことは、一人の人間が追い詰められる現場を見ても、誰一人助けることもなく、傍観者として見ているか、同じように攻撃をする加害者に無意識になっていることがあるという現実に、気づけていないことだと思う。

恐ろしい言葉を使ってしまうかもしれないけれど、私が見てきたものは、紛れもなく「公開処刑」だ。
職員会議で一人だけが名出しをされて、「怒っているわけじゃないのよ、あなたのためを想って言っているの」と上っ面だけいい言葉を並べて、グサグサと心をエグっていくような環境を。それを見ている周りは、「何も出来なくてごめんね」と心で思いながらも、黙って俯いていることしか出来ない人間か、「あいつだから仕方がない」と冷ややかな視線を送り続ける人間かのどちらかしかいなかった。
私は、その現場に何度もいたから、当事者が全く悪くないと言えば、それは違うと思う。彼女にも落ち度はあったし、迷惑をかけている部分は沢山あった。ただ「本当にこんなやり方は、あっているんだろうか。もっと、違う方法で、少しでも皆が働きやすい環境を作っていくべきなんじゃないか」と思う部分もあった。

けれど、そんなことは口が裂けても言えなかった。言ったところで環境は変わらないし、何より、攻撃が自分に向くことも分かっていたから。だから、心の中で「本当にごめんなさい。見て見ぬふりをすることしか出来なくて」と、罪を軽くするためだけのように、謝ることしか出来なかった。

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一度だけ、当事者の彼女と話をしたことがある。
どうしても見ていることが辛くなってしまったから。
感情を失った人形のように過ごし、時折ぼーっとした顔を見ると、恐怖を感じてしまう。だから、声をかけた。
「辛くないですか?怒られたり、言われたりするの……」
すると、今まで我慢していた分の涙が溢れ出てしまったように、何度も嗚咽するほど泣いていた。
「辛い、でも、自分でも出来ないのは分かっているけど、どうしていいかも分からないから」
そう言って、目を真っ赤にしながら泣いていた。
とても重く長い時間に、さらに罪の意識は強くなっていく。

誰だって弱い部分はあるし、苦手なことだってある。
完璧な人なんていないはずなのに、「子ども一人ひとりに合わせて保育をしましょう」と言っていた人が、保育士一人ひとりの性格や苦手なことを考えずに、なんでも勉強だからとやらせることは、本当に正しいのだろうか。一番近くの人たちを大切に出来ない大人が、子どもたちのことを大切にできるのだろうか。
思うことは沢山あっても、言うことは出来なかった。彼女にも「辛いですよね……。助けられなくて、力になれなくて、本当にすみません」そう言うしかなかった。

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こんなに偉そうに語っている私自身、弱くてずるい人間なんだ。結局は、一番自分が可愛くて、SOSを出している人に手を差し伸べて力になることは、休職する直前まで出来なかった。
もしも、私に勇気があったら、助けられたのかもしれない。けれど、今の私には当事者でもなければ、傍観者でもない。
あの環境から逃げてしまった私にできることは、何一つ無いのだから。