私が小学五年生だった頃、今でも忘れられない辛くて悲しい出来事がありました。この事件がきっかけで、私は同級生も大人も信じられなくなってしまったのです。

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この時の担任だった人は、五十代のおじさんでした。
子どもの私でも分かるくらい、ひいきをする人で、可愛くて人気者の女子を常に周りに置いていました。中心人物の男女は、その先生に好かれていて、優遇をされることも多くありました。そんな中、私はまるで空気のように見えない存在として、クラスにいる一人だったと思います。
しかし、そんな私に悲劇が訪れました。それは、四限目の漢字テストが行われた日のこと。

私は、勉強があまり出来なかったので、漢字テストを受けながら今回の点数は、きっと悪いだろうと思いながら、諦めモードで受けていました。チャイムと同時にテストの終了を告げられ、緊張の糸がプツンと切れ、なだれ込むように机に体を伏せました。
周りが給食の準備を始めようとしていた時に、慌てた様子で担任が私を呼び、「放送室にすぐに来い」と言われたのです。全く意味が分からず、言われた通りに放送室へと向かいました。

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真っ暗な部屋に入ると小さな電気だけが点いており、そこに担任が立っていました。すると、担任は私の顔を見るなり「両手を出せ」と低い声で促してきたのです。全く意味が分からなかった私は、言われた通りに両手を差し出しました。
すると大きな音と、手の平が痺れるような感覚がしました。
そう、私は担任に手の平を思い切り叩かれていたのです。
そして一言「お前、カンニングしただろう」と。

私は、全く身に覚えもなく、手の平だって綺麗なままだったのに、どうして疑われなくてはいけないのか、子どもながらに悔しくて悲しくて、それでも「先生、私はやっていません」と言うのが精一杯でした。
しかし、先生は「お前がやっているところを見たという奴を俺は知っている!」と繰り返すばかりで、私の話なんて聞こうとはしませんでした。それでも「私は、やっていません!」と言うしかなかったのです。
その後も、手の平を交互に見られたり、手の甲も見られたりしましたが、カンニングをしているような跡は全くありませんでした。そして最後に「俺は、お前がいつかやるような奴だと思っていた」と吐き捨てて、最後に一回、手の平を叩いて「もういい、行け」と放送室から出されてしまいました。

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悔しくて悲しくて、目に一杯涙を浮かべながら、果てしない廊下をゆっくり歩いて教室に戻りました。そこには、私の顔を見てニヤニヤする同級生の姿がありました。私は、きっと遊び半分で告げ口をして楽しんでいたのだと、一瞬にして理解をしました。
けれども、私には反論する勇気も気力も残っていませんでした。この時、人は誰も信じてはいけないし、味方もいないと気づいたからです。

その日の給食は、ほとんど食べることが出来ませんでした。悲しさのあまり、食べ物が喉を通らなかったのです。家に帰ってから、私は両親にこのことを言わずにいました。
叩かれたと知ったら悲しむことを分かっていたから。
そんな思いをさせたくないと、子どもながらに思ったからです。

そんな私の思いをよそに後日、家に電話が掛かってきました。担任から私がやったであろうカンニングについての話が。そして、母は私に「カンニングしたの?」と怒りと悲しみに満ちた顔をして聞いてきました。それでも「やっていない」と言い続けた私に、「分かった」とだけ言って、母は電話口で担任と何かを話していました。

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後に、カンニングは間違いだったということが分かり、晴れて私は、無罪だと証明することが出来たのですが、誰一人謝罪をしてくることはありませんでした。もちろん担任は「俺は、ずっと見ているぞ」という言葉を呟くだけで、叩いたことも疑ったことも、まるで正しいことだと言わんばかりの顔をしていました。
もう昔の話だから、私以外の人たちは、とっくの昔に忘れているでしょう。
しかし、あの時受けた心の傷が癒えたことは、一度もありません。

目を閉じれば思い出すのです。
放送室の匂い、部屋に響いた鈍い音、そして手の平の痛みも。

人を疑うことは簡単なことです。どれだけ間違ったことでも言う人が言えば、正義として捉えられることもある。片方の話だけを聞くだけでは、間違った答えを生み出してしまうことがあるのに。大人になってからも、少数派の意見は間違いだと言われたり、多数派の意見に同調してしまうことが多くあると思います。しかし、本当にそれは正しいことなのか、人数が多いからという事だけで判断をしていいのかを、今一度考える必要があると思うのです。
小学生の時の私は、人数の多さを目の前にして立ち向かうことも、意見を言うこともできませんでした。大それたことをするつもりはないけれど、もしも、同じような場面に出くわす時が来たら、人数に惑わされずに、自分の意志を尊重していきたいと思います。

あの時の屈辱は、もう味わいたくない。
そして、誰にも味わって欲しくないから。